書き出したら止まらない

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文学部ってどんなところ?何を学ぶの?(日本文学)|思い出とともに語ります

 

天ぷらを食って団子を飲み込むのも精神的娯楽だと思っているAuraです。おいしいものを食べると、すごく幸せな気分になれますよね。

 

本記事はこのような方に向けて書きました。

〇文学部(特に日本文学科)に入ろうか考えている方へ

〇文学部の授業がどんなものなのか知りたい方へ

〇文学部にはどういう人がいるのか気になる方へ

 

改めまして、文学部卒業のAuraです。

この記事では、「大学の学部どうしよう…でも文学部に興味あるかも」という方のために、大学時代の経験談や思い出などを書いていきます。
自分語りもありますが、「こんな人もいるんだ」というひとつの例として見ていただければと思います 笑

 

 

 

①「日本文学科」で学べる内容

「文学部」というと歴史学や哲学、心理学なども含まれるのですが、僕が所属していたのは文学部の中の一学科である「日本文学科」です。同じ意味の「国文学科」という書き方がされることもあります。
以下、この記事では文学部=日本文学科の意で使っています。

 

その名の通り、この学科では主に以下を取り扱っています。ただし、大学によっては一部なかったりするので、行きたいところの情報をチェックするようにしてください!

古典文学(古文・漢文)について

 

高校で習うのは『源氏物語』や『方丈記』といった平安~鎌倉時代の作品が中心ですが、大学ではこれ以外の時代の作品についても学ぶことができます。もちろん漢文学もあります。

 

 

近現代の文学について

 

夏目漱石や芥川龍之介といった文豪や、中原中也・室生犀星など詩人の作品について学べます。生きている現代の作家の作品を対象とすることもありますが、これを扱っている大学はやや少ない印象です。

 

 

国語学について

 

中学では現代日本語の文法を、高校では古典文法を学びましたよね。
こういった文法の用法や働きについて考察する学問を「国語学」といいます。方言や外来語、日本語の音声の研究などもここに含まれます。「言語学」というとイメージしやすいでしょう。

 

 

② 僕が文学部を選んだ理由

それはもう「文学について学びたかったから」の一言に尽きます。

 

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日本文学=国文(こくぶん)学=KOKU-BOONってバンドが組めます

 

文学部志望者として、あまりにも順当かつ普通の理由ですね 笑
「文学」のところを他の言葉にすげ替えれば、どんな学部でも通用しそうな言い方になってしまいました。

 

ただ他の学部と比べると、文学部は「好きであること」が特に大事だと僕は考えています。

 

例えば、法学部経済学部に入った学生の内、高校時代から「法律(経済)にめちゃめちゃ興味がある!大学は絶対に法学部(経済学部)のあるところにするんだ!!」という人はそれほど多くないだろうと僕は思っています。

少なくとも、僕が見てきた法学部・経済学部の学生はそうでした。あ、これは別にバカにしてるとかでは決してないですよ!!笑

 

法学部経済学部が選ばれる理由は、「どちらかというと興味がある内容だから学びたい」「就職で有利そう」「実用的で無難だから」といったものが少なくないでしょう。
繰り返しになりますが、これらの動機で進学することには何らの問題もありません。どんな動機であれ、入ってからちゃんと取り組めれば関係ないですからね。

 

(なお、「文学部は就職が不利」という風潮がありますが、僕はそうではないと思っています。詳しくは新たに記事が完成しましたらリンクを貼ります。)

 

これに対し文学部は、積極的に選び取られることが多い学部だと言えます。
「強い興味がある内容だから学びたい」「自分の興味・関心を突きつめたい」という学生が文学部には多いように感じられました(特に女子学生)。

 

そういう点では、外国語学部にちょっと近いんじゃないかと思います。フランスへの興味が全然ないのに、フランス語学科に進学しようという人はいないですよね。
さすがに外国語学部ほど「それに強い興味がある」ことを求められる訳ではありませんが、方向性はやはり同じでしょう。

 

文学部は「好きであること」が特に大事、ということの意味がこれで伝わったのではないかと思います。
すなわち、「好きであること」は文学部を選ぶ上で大事な動機なのであり、そして入った後、取り組む上でも大事なモチベーションになってくるのです。

 

まぁ…力説してはいますが、あくまでこれがベストだろうというだけで、文学部にいるのがそういう人ばかりかというと違います 笑

「学費が〇〇大学より安いから」「自分の学力で行ける一番いいところだから」「とりあえず文学部でいいっしょ」という感じの人もそれなりにいましたから、文学部に入ることにそこまで気負わなくても大丈夫(?)なのかもしれません。

 

 

③ 僕がどういう風に「国語が好き」だったのか

国語の授業にのめり込む

文学部においては「好きであること」が大事なんだというお話を前項でしました。

では、何をもって好きであるのを量るかが問題になるでしょう。その指標になるのが、「高校での現代文・古典の授業を楽しんだかどうか」です。

 

自分で書いておいてなんですが、めちゃめちゃ当たり前のことですね 笑

しかし、「高い熱量でのめり込めたかどうか」という観点で今一度振り返ってみてほしいと思います。「へー、面白いじゃん」くらいでもまぁいいんですけれども…笑

 

というわけで自分語りになりますが、僕のケースを書いておきます。「大学の授業の特徴が気になる!」という方は、この項を飛ばしていただいても大丈夫です 笑

 

(ア) 古典にハマる

高校入学まで、僕の古典に対しての興味は「普通」くらいでした。

中学までの古典の授業は、本文が予め現代語訳されていることが多く、どうしても味わいが損なわれている一面があります(無理からぬことですが…)。

ひたすら音読することで古典のリズム感などを楽しむことはできましたが、内容についての理解は薄かったことを覚えています。

 

しかし、高校でとにかく古典にハマります。

文法や語彙を習い、自分で古文・漢文を読み解いていく過程は新鮮で楽しかったです。あとは高校生になり想像力がついたことで、当時の価値観や心情をちゃんと理解できるようになったのも大きいですね。

そして高校生当時、特に印象に残っていたある作品が、そのまま大学における卒業論文の研究テーマのひとつになりました(作品名は伏せます)。

 

つまりは、高校の授業で何か感動したことが卒業論文のテーマに直結するかもしれないということです。なので、学校の授業を大切にしてくださいね…!笑

 

※卒業論文…大学4年次に、自分で何かテーマを設定して書く論文のことです。卒業するために必須のもので、毎年多くの学生が苦しめられています 笑

 

 

(イ) 夏目漱石の『こころ』で衝撃を受ける

多分、もう授業で『こころ』を習った方が多いのかな…?しかし、まだという方のため、なるべく内容には触れずに書きます。

 

文豪の作品を本格的に扱うのは、高校ならではですよね(中学では『走れメロス』か『高瀬舟』くらい)。
『羅生門』『山月記』は大体どこの学校でもやっていると思うんですが、僕のお気に入りは断然、夏目漱石の『こころ』です。

 


こころ (岩波文庫)

 

高校生当時、まさに三角関係の渦中にあってもがいていた僕には、『こころ』があまりにも衝撃的でした。
感銘を受けた僕は、教科書に掲載されてある部分を何遍も何遍も読み返しては、その度に「素晴らしい…良い……」と我を忘れていました。

 

大学生になってから全編読み、さらにお気に入りとなりました。

そこでふと「僕の個人的な思い出補正が強いのかも?」と思い周りに尋ねてみたところ、「現代文の授業の中では『こころ』が一番好きだった」という人がいたので安心(?)しました 笑

さらに言いますと、国語の先生の間でも『こころ』は人気のある作品なんです。

 

このブログのヘッダー画像に載せる本を決める時、これは外せないなと思い、即座に選びました。

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タイトルは見切れちゃってますが…

 

(ウ) 宮沢賢治の『永訣の朝』で詩に目覚める

「詩」というとどこか近寄りがたく思われがちですが、小説などと同じ感覚で楽しめるものだと僕は考えています。

似て非なるものかもしれませんが、Jポップの歌などで「この歌詞いいよね!」と話すことは詩を楽しむことと近いでしょう。

 

僕が「詩が好きだったんだ」とはっきり自覚できるようになったきっかけは、宮沢賢治の『永訣の朝』の授業でした。

 


永訣の朝―宮沢賢治詩集 (美しい日本の詩歌 11)

 

僕にとって、あれほど心を震わされた詩は他にないです…。まず先生の音読を聞いた時点でかなり涙腺が……。
授業後、友達に「めちゃ良かったね!」と興奮気味に言うも、「俺は詩はちょっと分かんないな…」と返され、もどかしい思いをしたものです 笑

 

僕の場合、それまで『わたしを束ねないで』『I was born』など「ハッとさせられる」系の詩を多く習ってきたので、「詩って尖ってるものが多いんだな」と勝手に思い込んでいたところに、叙情的な『永訣の朝』がやってきたわけです。

もちろん「ハッとさせられる」系の詩も好きですが、楽しみ方・見方が広がったという感じですね。

 

 

僕の読書量

さて、ここまで僕の経験談を読まれた方の中には、ひょっとすると「え、この人ガチ勢…??」と感じた方がおられるかもしれません。

しかし結論から言いますと、僕は逆立ちしてもガチ勢にはかないません 笑
(※ここでの「ガチ勢」は皮肉などではなく称賛で使っています。)

 

ここで、「好きであること」を量るもうひとつの指標、「読書量」を見ていきます。
国語が好きな人は読書も好き、または苦ではないということが多いのではないかと思います。

 

文系・理系問わず読書を趣味とする人はいますが、やはり文学部志望者には読書好きが多く、また読書量も中々のものです。

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画像はイメージです。僕は洋書は読めません 笑

 

では僕の場合、高校3年間で読んだ冊数は……

 

10冊未満です。

 

どうでしょう?1年で3冊読んでいるかどうかというレベルです。

ただたくさん読めばいいというものでもないでしょうが、それでも一般的な文学部志望者のイメージからすると、全然読んでいない方だと僕は思っています。
これが、僕はガチ勢とは到底言えないという所以なんですね 笑

 

一応言い訳(?)もさせてください 笑

僕は中学生の時、学年順位は下から数えた方が早いという有様だったので、高校ではそれを埋めるための勉強に時間を費やしていました。

 

そして、本を一冊読んだら(特に自分に合っていた場合)それだけでめちゃめちゃ心が満たされてしまい、「ふぅ、お腹いっぱいになったからしばらくはいいかな」となっていたんです。個人的に、とりわけ物語は「消費」したくないという思いもあります。
いやはや、実に文学部にあるまじき(?)読書欲のなさですね。

まぁ、本以外に新聞や辞書も読んでいたので、一概に活字に触れていないとも言えないのですが……。

 

 

何はともあれ、「高校での現代文・古典の授業を楽しんだかどうか」「読書量」などの指標で「好きであること」を量り、文学部に入るかどうか考えてみていただければと思います。

 

僕は読書量こそ少ないものの、国語の授業が何よりも楽しかったので「文学を学びたい!」と思うに至りました。

センター試験ではおおよそ想定通りの点数になり、先生に「この点数なら△△大学の▢▢学部も選べるぞ」と、より偏差値の高い大学をやんわり薦められましたが、「僕は自分の興味を優先するんだ…!文学部一択!!」と文学部のある方へとまっしぐらに突き進みました。

 

ところが、僕は大学で多少のギャップに直面することになるのです 笑

 

 

④ 高校との違い

さて、意気揚々と文学部に進学した僕ですが、いくつかの「壁」にぶつかります。
高校とは異なる「いかにも大学っぽい」特徴を、具体的に書いていきます。ただしいずれも「良い悪い」の問題ではないのでご注意ください。

 

大学の先生は「研究者」

まず、眠かったり退屈に感じたりする授業が一部あるということです。

 

……いや自堕落なだけなのでは、というお叱りを受けそうですね 笑
確かに僕は自堕落な人間なんですが、少しだけ説明させてください!

 

概してよく言われるのが、「大学の授業時間は80~90分で、高校より長いから」「大人数(場合によっては100人超)相手に広い教室で授業をするため、先生の目線が気にならなくなるから」あたりですね。

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日本の大学もこんな感じです。教壇が遠い 笑

 

これらも理由として大きいのですが、今回は別の観点からお話ししたいと思います。

 

大学の先生と高校の先生とでは、前提に違いがあります。
それは、高校の先生が「教育者」であり、大学の先生は「研究者」だということです。

 

高校の先生は、生徒への教科指導すなわち「教えること」が一番の仕事です。そのため、生徒の反応を予想するなどして計算された授業を作り上げています。

 

片や大学の先生は、「自分の研究」がメインとなります。もちろん大学教授にも「教育者」の面がありますから、自身が持つ専門的・学術的な知識や考え方を学生に教えることも仕事の一端です。
ただ、やはり研究が一番優先されます。なので教授によっては教え方…というか話し方がもう催眠術。

 

ゆえに、授業の段取りや空気感が高校とは全然違うことがあります…!その違いのために、一部の授業では眠くなる&退屈に感じるわけです……!!

 

誤解のなきよう念のため記しますが、当然ながら例外も多々あります 笑

高校の授業でも先生によっては「この授業つまらんなぁ…」と感じることもあるでしょう。
反対に大学で「なんて面白いんだ…!90分どころか延々と聴いてられる…!!」と思える講義だってたくさんあるんです。

 

結局のところ、受け手である僕たちの興味関心の程度によって、授業の面白さがいくらか左右されることは否めません。
しかし高校と大学の先生の、送り手としての性質の違いも知っておくといいよ、というお話でした。

 

大学の教材は難しい

大学で使う教科書は(当たり前ですが)専門性の高いものが多く、分かりやすさを重視する高校の教科書より言葉や説明が難解であるため、初めは理解するのに時間がかかります。多分これは文学部に限らないだろうと思います。

 

また、高校の教科書は多色刷りでカラフルだったり、字が大きかったりして見やすいですが、大学の教科書でそういう作りになっているものは少ないです。

 

昔、理系学生の教科書を見せてもらったことがあるんですが、ほんとに黒一色かつ細かい字でびっちり書いてあって「うげぇ…」ってなりました 笑

 

つまりは、内容自体が難しく、しかもそれを載せている教材が淡白な感じなんです。

 

なお、(全大学がこうとは限りませんが)文学部では教科書を使わず、先生の用意したプリントで毎回授業が進められることが多いです。
プリントの管理が苦手な方はファイルを使ってしっかり整理しましょう 笑

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僕の部屋にはまだ小学生時代のプリントが眠っています。イメージ画像です。

 

実際、僕が大学4年間で買った、文学部の授業用の教科書の冊数はせいぜい2冊程度です。ほとんどプリントでしたね。

 

このプリントも、先生が持っている資料本(学術書)や論文などから中身を抜粋し、一枚にまとめて作られていることが多いため、やはり難しく感じられることがあります。

そして、これに基づいて授業が行われるので、慣れるまでは眠くなったり退屈に感じられたりする…と 笑
(慣れたら結構楽しく授業を受けられます!)

 

ただ、普通にレイアウトや文言が工夫されていて分かりやすいプリントを作る先生も多い(特に若い先生)ので、安心してください 笑

 

ちなみに、大学では授業で使うプリントを「レジュメ」と言い表すことがあります。

 

板書をしっかりしてくれないことがある

こちらはもう上の見出しの言葉の通りです 笑
高校でも黒板に最低限しか書かない先生はいますが、大学では殊更にその傾向が強まります。

 

大学は、一回の授業時間が80~90分であることが一般的で、高校の倍近くありますが、板書量は半分以下です(文学部の場合)。
教科書またはプリントを片手に、先生がずっと喋っているというスタイルを多く見かけました。

板書の代わりにPowerPointのスライドを使う先生もいますが、こちらでも喋りっぱなしであることがちらほら。

 

なのでちゃんと聞きとってメモしておかないと、試験前に絶望することになってしまいます 笑

 

発表が多い

「え…?発表って何…??」と疑問に感じる方もおられるのではないでしょうか。イメージとしましては、プレゼンが近いかと思います。

 

大まかに手順を書きますと、

①自分でテーマ(または先生に割り振られたテーマ)を決める

 

②大学図書館などで本や論文といった資料を探して調べる

 

③調べた内容をまとめつつ、自分なりの考察を書く

 

④当日、授業時間の一部(20~40分くらい)を使い発表

 

⑤先生や学生からの意見・質問に答える

 

⑥先生からのフィードバックなどを伺い終了

といった感じです。高校ではこういった形式の授業はあまりないですよね。ただしプレゼンとは異なり、PowerPointでスライドを見せながら進めるということは少ないです。

 

みんなの前でそれなりに長い時間喋って、しかも質疑応答まであるのですから、発表当日が近づいてくると緊張が高まります……僕も友達も、この発表なるものには随分手を焼きました…笑

 

と言っても、大学に入ってすぐに発表をさせられるわけではありません。

 

大学1~2年の段階では2~3人でグループを組み、発表時間も短めであることが多いです。
また、自分の番より先に先輩(※大学では学年をまたいで同じ授業を受けられます)の発表もあるので参考にできます。

まぁ、大学3~4年になると自分ひとりで、長い時間発表することになるんですけれども……。

 

どの学年でも大体、半年で計3回くらい発表をすることになります。例えば、古典文学の授業で1回、近代文学の授業で1回…といった具合です。
そして、試験の代わりに発表の完成度で成績評価がなされます。

 

 

⑤ 発表での苦労や困惑

ここまで、「眠くなることがある」「教材が難しい」などの壁にぶつかってきましたが、僕にとって、慣れてきたらなんということもありませんでした。
ただ、「発表が多い」だけは最後まで難儀でしたね……笑

 

「発表が多い」ということの、何が僕を困惑させたかというと、

〇先生による講義が減っていく
〇発表それ自体がしんどい

の二点です。

 

高校と大学との「学び方」の違い

先生による講義が減っていく」から触れましょう。

先ほど僕は文学部に入った理由を、「文学について学びたかったから」だとお話ししました。その意味するところは、「専門知識を持つ先生のお話を聞いていたい」ということなのです。 

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先生の知識量はすごいんです!ずっと聞いていたい…

 

しかし学年が上がるごとに、先生が教壇に立って授業をすることは減っていき、学生による発表が中心になります。

もちろん、学生による発表でも興味深い内容のものはあります。優秀な学生やガチ勢による考察は聞いていて驚きの連続です。が、やる気の低い学生の場合は……(ノーコメント)

 

※一部の学生を見下すかのような記述に見えてしまうかもしれませんが、人格否定などではなく、あくまで発表の中身についての客観的・相対的評価をしているとご理解ください。

 

発表の最後、質疑応答の場などで先生のお話は聞けますが、僕としては「もっと聞かせてくれぇぇぇ!」という心境にならざるを得ません。

 

これが、僕にとっての一番のギャップでした。
ただ、僕は「学び方」が高校と大学とでは決定的に違うということをよく理解できていなかったのです。

 

「真面目に学びたいな」と考えている方に僕からお伝えしたいのは、高校での学びは先生から教えを受けることが中心ですが、大学では自分からもどんどん探求していくという姿勢が不可欠だということ。

 

探求するというのは、図書館で資料本(学術書)や論文を読んでみたり、学友と意見交流したり、先生に自分から質問してみたり、それこそ発表で自分なりの考察を頑張って組み立て、質疑応答を通してそれを深掘りしたりするなど様々です。

 

単純に効率だけ見るのであれば、先生のお話をひたすらに聞くことができればいいのかもしれません。
ですが、曲がりなりにも自分で探求していくことが——時にはその中で迷うことさえも含めて——本来的な「学び」の姿だったのだと僕は考えています。

 

いささか理想論的であることは認めますが、高校との違いをお伝えするのが本記事の目的なので端的に書いてみました 笑

 

 

先行研究の「強弱」と客観的妥当性

さて、理想論的なことを述べいい感じになったのでもうしめたかったんですが 笑、今度は「発表それ自体がしんどい」についてです。

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発表前日はマジでこんな感じになってました 笑

 

発表それ自体がしんどいというのは、「発表が多い」の項に示しました、一連の手順等を見ていただいてなんとなくイメージできるかと思います。

 

ここでは、なかんずく労苦を伴う「先行研究を参照しつつ、自分なりの考察・持論を立てる」ということについて記していきます。

 

「先行研究」とは、何らかの研究分野において、大学教授や大学院生などの研究者が書いた本(学術書)または論文のことを指します。文字通り、自分の研究よりも先に発表された研究=先行研究ということです。

 

もし貴方が、小説かマンガを生み出すことを考えたならば、既に世に出ているものを参考にしつつも、完全な丸パクリにならないよう気を払いますよね。

大学における研究も、ちょっと粗雑な括り方かもしれませんが、これと同じといっていいでしょう。

 

発表のような研究活動をする際には、まず先行研究について取りあげ、「自分はこの分野について調べ、(ある程度でも)理解している」ということがまず重要になってきます。
その上で「自分なりの考察・持論」=新しい知見を示さねばならないのです。

 

注意しなければならないのは、先行研究には「強弱がある」ということです。

 

ここで、僕の母校の先生のお言葉を紹介します。

「理系ではデータを示すことで論拠を確かにする。実は文系でもやっていることは同じ。
筋道の通った主張をすることによって、誰の目から見ても正しいと思えるような、客観的妥当性を示す必要がある」

 

研究というのは、自分だけがそうと思える論を唱えても意義がありません。万人が、いえ少しでも多くの人が、そうだと納得できる論を展開しなければなりません。

それが、客観的妥当性を示すということです。

 

先行研究を調べる際、その客観的妥当性や「強弱」をどう判断するかは、研究の系譜を確かめるのがひとつの有効な手段です。

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文学研究は、ながーい積み重ねの上に成り立っています。

 

「強い」研究というのは多くの人に支持されるものです。そのため、その後の新しい研究の多くで度々引用され、そこからさらに論を発展させる上での土台の役割を果たします。

また、研究者向けの学術書や一般向けの書籍で、解説や解釈の根拠として使われることもあります。こうなると「通説」のレベルになります。

 

何かを研究する時には、この「強い」研究を知っておかないと、「あの論文は当然、もう読んでるよね?」みたいなことを言われてしまうかもしれません……「強い」研究を最初に教えてくれる先生もいれば、「自分で見つけてね」というスタンスの先生もいます……笑

 

また逆に、新しい論文で「この主張には誤りがある」と否定されていくことがあれば、それは「弱い」ところがある研究だということです。

なお、「強い」研究でも、後になって部分的に「弱い」ところ=論の欠陥を指摘されていることがあります。

 

ただし、このように「強弱」を判断しやすいのは、研究が盛んな分野に限られることもあります。マイナーな研究などでは、そもそも先行研究の数が少なく、議論が深まっていないことがありますから…。

研究が盛んな分野では主張が対立することもしばしばあり、学派同士で互いの論に異議を唱えています。言い換えれば「弱さ」を指摘し合っている状態ですね。

 

その場合、客観的妥当性や「強弱」を見定め、どの論を採用すればよいか判断するには、貴方自身の考え方や知識、検証力にかかっていると言えるでしょう 笑

 

新しい知見を見出すには

そして、先行研究を踏まえた上で、「自分なりの考察・持論」=新しい知見を示すのです。

 

たとえるなら、国語の授業で先生から教わった「この表現には実は〇〇という意味が込められている」「この展開から〇〇ということが解釈できる」というような、「面白さ」を自分で探すということです。

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いざ自分で探すとなると大変です

 

なんだかすごく難しそうなことに見えますね、、、、、笑

さすがに、大学1年からそこまでハイレベルな論を出すことは発表で求められません。「感想」程度でも先生によってはセーフです。

 

また、「新しい知見」というのは、必ずしも「他にはない全く新しい発見」と同義であるとは限りません。

先行研究を補う論を考える、さらに発展させる、疑義を提出し逆に否定する…種々のやり方があります。

 

そしてこれを、客観的妥当性のある文章で書き上げるのです。
なお、発表で自分なりの考察をしっかり組み立てねばならないというお話ですが、これはレポート課題や、ひいては卒業論文でも同じことが言えます。

 

こうまで言うと、なんだか脅しみたいになってしまいましたね 笑

 

ですが、「当たり障りのないことを書いておこうかな…」と萎縮して、挑戦する心意気を捨てないでほしいと思います。

もし貴方の発見が一見して突飛なことのようでも、相応の筆致で論証できれば、それは他にはない新見になるのです。

 

「じゃあ客観的妥当性のある文章ってどんなもの?」という声が聞こえてきそうですが、紙幅の都合もあるので割愛させてください…笑

 

ただいずれにしてもおいそれとはいかないのですが、これこそまさしく自分で「学び」を探求する過程なのです。

人によっては、苦心することになるのが必然ですけれども、この時取り組む上で大事なモチベーションになるのが、かなーーーり前の項でお話しした、「好きであること」なんですね。

 

好きこそ物の上手なれ、何事も熱中できれば捗るものです。ただ文学部においてとりわけ「好きであること」が大事であるのは、こういう発表の準備などで心折れそうな時に自らを支えてくれるからに他なりません。

この気持ちが薄いと、卒業までがちょっとつらいかもしれませんね……笑

 

テストは「習った知識を出力する」、発表は「自分で組み立てる」ものですから、性質が全く異なります。
僕にとってはテストの方が基本的に楽なので、発表がとにかく大変でしたが、結果的にはなんとかなって良かったです。

 

これが真のガチ勢であれば、苦労しつつも楽しみ吸収していくので、本当に尊敬しかありません…!!笑

 

 

⑥ 文学部での思い出

さて、なんだか抽象的かつしんどそうな話で結んでしまうと、文学部に来てくれる人が減りそうなので、ここで「文学部での思い出コーナー」を設けます!笑

 

簡潔に書いていくので肩の力を抜いてご覧ください。身内ネタも若干ありますが、ご了承ください 笑

 

File.1:(主にサブカルの)趣味が合う人が必ずいる!?

文学部の学生は「好きなことには一直線!」という人が多い気がするので、ありとあらゆる趣味が網羅(?)されています。

小説が好き、ラノベが好き、漫画が好き、アニメが好き、ソシャゲが好き……

 

読書家からいわゆるオタクまで、もうたくさんいました。しかもニッチな作品に精通する人もいるので、必ず趣味の合う人がいるかも?しれません 笑

 

友達でありこのブログの共著者でもある、トフィーもまたそのひとり。

僕はサブカルにやや疎いのですが、彼にたくさんのアニメを紹介してもらったことで、人生が豊かになりました 笑

 

またトフィーに様々なソシャゲを布教(強要)されインストールしましたが、僕は大体のソシャゲで、布教した彼を上回る廃人となり果てました。
そう、好きなことには一直線ですから…!!

 

そして、僕が「なんか家に文豪の作品けっこう置いてあったから、ちょびちょび読もうと思ってるんだよね」と話した時の、トフィー屈指の名言(迷言?)がこちら。

「まぁたそんなのばかり読んで!ラノベを読め、ラノベを!!!」

 

後日、この発言について確かめたところ、本人に「え?そんなこと言ったっけ?多分何も考えてないわそれ」と言われました。うーん……笑

 

 

File.2:文学部的な話も…!

File.1ではサブカルに寄ったエピソードになりましたが、いかにも文学部!という話も友達とできて、充実した時間を過ごせました。

「僕が文学部を選んだ理由」の項で、僕は詩が好きだというお話をしました。高校でそれを共有できる友達はいなかったのですが、やはり文学部ならいました。

 

例えば僕にとって思い入れの深い、宮沢賢治の『永訣の朝』についての小話をば。

「最近読み返したら泣いてしまった…!ただ場所が病院の待合室だったから、ちょっとアレだった 」

友達「私もこの前バスの中で読んでたら涙が止まらなくなっちゃって…」

僕&友達「公共の場で泣ける詩を読むのはやめよう!笑」

 

僕は詩が好きといっても詳しいわけではなかったのですが、その友達から他にも詩人や詩の解釈について、いろいろ教えてもらったりして語らうひとときは、本当に楽しかったものです。

 

さらに別の友達を交えて、「『近代的自我』とは、ありそうで実は無いものなんじゃないか説」について話したこともあり、そこでは結論が出ず……!

 

※近代的自我…説明するのが大変すぎるので、ググってくださいますようお願い申し上げます 笑

 

これらのエピソードは、もしかすると何か気取ってるように見えるかもしれませんが、僕含め、当人たちは至極真面目に、純粋に好きだからこそ話しているのです。

 

 

おわりに

とてもとても長い記事になってしまいました。特にお伝えしたいポイントをまとめておきます!

〇文学部とは、積極的に選び取られる傾向のある学部である。

 

〇入るにあたっては、「好きであること」が特に大事。

 

〇「好きであること」は、文学部を選ぶ上で大事な動機になる。

そしてこれは、入ってから発表などで苦労した際に、乗り越えていくための大事なモチベーションでもある。

 

「国語の授業にのめり込めたかどうか」「読書量」などの指標で「好きであること」を量ろう。

 

〇日本文学科では、だんだん先生による講義が減っていく。ただ教えを受けるだけでなく、自分から「学び」を探求する姿勢が必須。

 

〇発表などで自分の考察を組み立てる時には、先行研究を調べよう。

 

先行研究の「強弱」に注意する。また、自分の論を書く時には「客観的妥当性」のある文章を。

 

〇このブログの共著者・トフィーは「文豪の本じゃなくてラノベを読め!!」という名言(迷言)を残した。

 

……すみません、最後のは気に留めなくても全然大丈夫です 笑

 

ハードルが高く見えるかもしれませんが、ガチ勢でない自堕落人間の僕でもこうして卒業できたので、きっとなんとかなるでしょう…!笑

 

確かに苦心することもありますが、それ以上に、向いている人にとって文学部は(いい意味で)刺激のあって楽しく勉強できるところなんじゃないかなと思います。

多少のギャップはあったものの、僕は文学部を卒業した今振り返ってみても、満たされた思いでいます。まぁ、もう少し頑張れたかもしれませんが 笑

 

この記事を読み、文学部において重要なことをおさえた上で、「よし、入ろう!」と意を決してくださった方がおられましたら、文学部冥利に尽きるというものです。
良い大学生活を!

 

 

〔参考〕
先ほども出てきました、学友のトフィー視点の記事です。本人いわく、文学部に「間違って迷い込んでしまった」とのこと。求めていたものと違った…という感じですね。
内容に一部、僕の記事とは見解の異なるところもあるんですが、こちらもご覧ください 笑 

www.kakidashitaratomaranai.info

 

長い記事だったので、ここにも目次を貼っておきます。

 


こころ 坊っちゃん (文春文庫―現代日本文学館)

 

中村文則の小説に惹かれる理由がやっとわかった|『土の中の子供』

どうもトフィーです。
今日は中村文則の作品の持つ引力について話していこうと思います。
その過程で先生の代表作『土の中の子供』についても紹介していきますので、気になった方はぜひ手に取ってみてください。


土の中の子供 (新潮文庫)

 

1.基本的に暗い作風の中村文則の作品

中村文則の小説は、基本的に暗い作風が多いです。
数ある純文学作家の中でも特にそう感じます。
それはストーリー展開や人物の心情描写はもちろんのこと。
一人称でありながら、たんたんと自身のことを語っていくような文体をとっていることもそのように感じさせる一因でしょう。

彼の作品ではだいたいの場合、主人公やその周辺の人物はなにかに縛られています。
それがなにかといえば、幻想だったり、妄想だったり、あるいは強迫観念だったりと、色々なパターンがありますが、あえて共通点をみつけてくくるのであれば「言語化できない不安と恐怖」といったところでしょうか。

『銃』、『王国』、『悪と仮面のルール』、『土の中の子供』、『去年の冬、きみと別れ』、『何もかも憂鬱な夜に』etc.
多くの作品内で、彼ら彼女らは虐待された経験だったり、普通でない家族だったり、非日常や反社会的なことへの憧れといった枷を外せぬまま大人となり、歯車が少しずつ狂っていくのです。

 

2.『土の中の子供』の一節でようやく気づいたこと

ぼくは基本的には作者買いという方法で、本を手に取ることはありません。
ふらっと本屋に立ち寄っては、表紙やタイトル、あらすじなどに目を通して衝動買いしたり、ネットで紹介されていて気になったものをAmazonで購入したりといった購入パターンがほとんど。
そうして買った本がおもしろく感じられても、たまたまそのときの内容が自分の好みと合っていただけで、他の作品もそうであるとは限らないと考えてきました。
最近ではそれも多少変わりつつありますが、それでもやはり作者自身を好きになって他作品にまで手を伸ばすというのはレアケースです。

そんなぼくですが、中村文則の作品だけは高校時代からちょくちょくと読み続けてきました。
ちょくちょくというのはぼくが熱心なファンなどではなく(全作読んだわけでもありませんし)、ただなんとなく中村作品を手に取って、時間をおいてまたべつの作品を手に取るといった読み方をしていたからです。
特にこれといった理由もわからぬままに、「なんかいいな」といった曖昧な感覚で読んでいました。

そんな具合に大学を卒業した今でも、思い出したように彼の作品を積本の中から発掘しては読んでいたのですが、最近になってようやく目を通した『土の中の子供』の中のとある一節が、妙に心に残りました。

 

 

「……本、持ってきて。あなた、色々読んでるでしょう? ここにいると退屈で死にそうだし」 
「俺が持ってるのは、暗いやつばかりだぞ」
「何でそんなの読むの」
「何でだろうな」
 私はそう言い、小さく笑った。
「まあ、救われる気がするんだよ。色々考え込んだり、世界とやっていくのを難しく思ってるのが、自分だけじゃないってことがわかるだけでも」

引用:『土の中の子供』

 

まさにこれでした。
要するに中村文則の物語は、ぼくにとって共感性が高く、救いを与えてくれるような作風だったのです。

ぼくは基本的に暗い作品を手に取って好む傾向がありました。
その中でも中村文則作品を読むと、うまく言葉にできない日頃抱いているような憂鬱な心情が表現されていくような気分になりました。
心地よいというか、妙な安心感みたいなものが得られました。
ぼくは無意識に先生の作品に対して救いを求めて、一時的に満たされていたのでしょう。

そして中村文則作品に暗い作品が多い理由として、その根底には上記の台詞のような思いが込められているのかもしれません。
そうだとしたらナーバスな気分のときに先生の作品がすっと入り、隙間を埋めてくれるような感覚になるのも頷けます。

 

3.『土の中の子ども』についての補足情報

27歳のタクシードライバーをいまも脅かすのは、親に捨てられ、孤児として日常的に虐待された日々の記憶。理不尽に引きこまれる被虐体験に、生との健全な距離を見失った「私」は、自身の半生を呪い持てあましながらも、暴力に乱された精神の暗部にかすかな生の核心をさぐる。人間の業と希望を正面から追求し、賞賛を集めた新世代の芥川賞受賞作。著者初の短篇「蜘蛛の声」を併録。

引用:土の中の子供 (新潮文庫) 

 

中村文則の第5作目の小説。
第133回芥川賞受賞作。

純然たる文学作品です。
とはいえ116ページで分量も軽く、文体も平易であるために意外とサクッと読むことができます
中村文則作品には短篇・中編・長編と様々な形式のものがありますが、『土の中の子供』は最初の一冊としては非常におすすめだと思います。

 

主人公はあえて不良に殴られるように挑発したり、転落死しようとマンションから身を乗り出したりと、破滅願望者のような振る舞いを見せます。
幼少期のころの虐待の経験が彼をそのように振舞わせている、染み付いた恐怖によって彼は破滅へと導かれて行っているのだと思いましたが、そうシンプルな話ではなかったのです。

最後まで読み終えても、結局主人公がなにに苦しみ、どのような心境の変化があったのかはうまく言語化できません。
というよりも現時点で、無理に言語化してもしょうがないという思いがあります。
芥川賞受賞作ということで、探せばいくらでも研究は見つけられそうですが、しばらくは目を通すつもりもありません。

何年後かにもう一度読み返して、改めて自分の頭で整理したい。
『土の中の子供』はそう思わせられた作品でした。

佐野徹夜『さよなら世界の終わり』レビュー|評価が難しい憂鬱な物語

どうも、トフィーです。
電撃大賞の一次結果発表が一ヶ月遅れになることが、公式サイトによって告げられました。
しかたないこととはいえ憂鬱な気分です。
梅雨入りも相まって、ただただ憂鬱です。


さて、憂鬱を強調するのはここまでにしましょう。
今回紹介する小説は佐野徹夜先生の『さよなら世界の終わり』です。
佐野先生といえば、第23回電撃小説大賞《大賞》を受賞した『君は月夜に光り輝く』が有名ですね。
映画化もされ、多くの人を虜にしました。


今回レビューする『さよなら世界の終わり』ですが、非常に暗くやるせないストーリーで、読者の憂鬱さを刺激してくるような変化球的な作品です。(また憂鬱を強調してしまった……。それも太字で)
というのも物語に登場する3人の少年少女は、みんな漠然としたなにかに追い詰められています


これまで取り上げてきたどの小説と比べても、好みのわかれる作風だと思います。


さよなら世界の終わり(新潮文庫nex)

 

 

 

1.あらすじ

僕は、死にかけると未来を見ることができる。校内放送のCreepを聴きながら、屋上のドアノブで首を吊ってナンバーズの数字を見ようとしていた昼休み、親友の天ヶ瀬が世界を壊す未来を見た。彼の顔を見ると、僕は胸が苦しい。だから、どうしても助けたいと思った――。いじめ、虐待、愛する人の喪失……。死にたいけれども死ねない僕らが、痛みと悲しみを乗り越えて「青春」を終わらせる物語。
生きづらさを抱えるすべての人へ――。

引用:さよなら世界の終わり(新潮文庫nex)

 

2.内容紹介

a.評価

評価:★★★☆☆
新潮文庫
2020年6月刊行 

今回は評価を星3としましたが、気分や状況によってはもう一段階上下しうる内容でした。


というのも『さよなら世界の終わり』は、抽象的で幻想的な描写が続きます。
まるで心のうちをそのまま描き出した内容で、自分の心境しだいで受け取り方が大きく変わってくるかと思います。
夢か現実かもわからなくなってくるような、不思議な感覚。
たとえるとするならば、芸術的な絵画を前にしたときの感覚に近いでしょうか。


具体的にいえば、どん底まで落ち込んでいる方、そうでなくても日々が退屈でしかたがない方、漠然とした不安がずっと晴れないような精神状況が続いている方におすすめです。
また、思春期真っただ中の学生にも響くかと思います。


逆に順風満帆の日常を送っている方、毎日が楽しく感じられる方、明日に希望が感じられる方など健全な精神状態にある方が手にとれば、拒否感をもってしまうかもしれません。

 

というような感じで、人によって大きく好みや受け取り方が大きく変わりそうな小説です。

自分で選んでいるのであまり文句はいえませんが、レビューが難しい……。

 

b.登場人物

今回はさらっと行きます。

間中

主人公の少年。
死にかけると未来の可能性を見ることができる。
自殺未遂の手段は、縄で首を絞めること。
その能力で天ケ瀬が人を殺し、世界を終わらせる光景を目にする。
この物語は彼の一人称で進行していく。

青木

主人公曰く、「何かほっとするような柔らかい雰囲気」がある少女。
死にかけると幽霊を見ることができ、対話も可能。
自殺未遂の手段は、手首をナイフで切ること。
主人公は彼女を通して、間中の妹や星の幽霊とコンタクトを取っていく。

天ケ瀬

主人公たちの前から姿を消していた少年。
死にかけると他人を洗脳できる。
自殺未遂の手段は、頭にスタンガンを突きつけること。
舞台装置の役割を果たす。

 

c.ストーリー紹介(若干のネタバレを含みます)

独特で退廃的な世界観でしたが、読みやすく、個人的には大きな抵抗もなく、読み進められる物語でした。
佐野先生が一番最初に書きあげ、ずっと温めてきた作品ということもあって、普段言葉に出来ない思いが込められているかのような印象を受けました。


主人公の少年・間中は破滅願望のような、世界の終わりを夢に見つつも矛盾した行動を取り続けます。
青木や天ケ瀬といった施設でできた仲間との会話もどこか投げやりで、彼らがなにを考えているのか、どうしたいのかがなかなか掴めないのです。
ただ彼らの行動に整合性がないという点に関しては一貫していて……。

一つだけ言えることといえば、彼らはみんな人生に疲れているということです。
以下に、この作品を象徴する間中と青木の会話を引用します。

「究極の幸福って何?」
 屋上ドア前で、相変わらず焼きそばパンを食べながら青木が言った。
「この世に生まれてこないことだろ」
 僕は身も蓋もないことを言った。それは、何の価値もないただの真実だった。

『さよなら世界の終わり』より引用

 
この物語には、どこか狂った人物しか出てきません。
そして主人公の目線でひたすら世界の不条理さが描かれていきます。
引きこもりの状況から社会復帰をするために、親に厚生施設に送られてしまったこと。
その施設で囚人のような扱いをうけたこと。
妹が死んだこと。
高校で壮絶な虐めにあったこと。
主人公に未来を見る能力が宿ってしまい、施設でできた仲間が人を殺し、世界を終わらせるビジョンを見てしまうこと。


なにもかもが理不尽で、けれども主人公はただ諦観し続けます。
彼が声をあげて動きを見せることに期待するものの、なかなかそのような展開は訪れません。
スカッとするような爽快感や大逆転なんてものはなく、100頁にさしかかったころには気分が落ち込んできて、いっそのこと読むのを止めてしまおうかとも思うほど。
でも、そうはしませんでした。

レビューをするためといった打算的な考えからではなく、この物語にはどこか惹かれるところがあったのです。
そしてまた、こうも思ったのです。
きっとどん底まで落ち込んでいる状況で手にとれば、もっと共感できるような内容なのだろうと。
大なり小なり絶望している人からすれば、きっと心に響く結末が用意されているのだろうと。

結論から言えば、その直感は正しかったと思います。(ただ、自信ありませんが)
ぼかして説明するのであれば、釈然としないような、けれどもハッピーエンドのようななんともいえない結末でした。
けれども中高生時代のぼくが手に取れば、今以上に楽しめたのではないかと思います。


この作品が救いになるか、はたまたなにも残さないかは、読者の状況次第としかいいようがありません。
けれども万人受けする物語など存在しないし、この小説が世に出た意味というのも十分にあるのだとぼくは思います。

一度手に取ってみる価値も十分にある小説だと判断し、今回の記事で紹介させていただいたのです。

 


さよなら世界の終わり(新潮文庫nex)

 

 過去記事です。どちらも退廃的な雰囲気を持つ物語です。

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レビューのまとめ記事です。
よければご覧ください。

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【こんな人は向いてない】文学部に入ろうか悩んでいる方に向けてギャップを語ります

恥しかない生涯を送って来ました。


この記事はこのような方に向けて書いています。

・文学部(国文学科)に入ろうか悩んでいる方へ
・学部が決まらないから適当に選んでしまおうと投げやりになっている方へ
・小説を書きたい方へ


どうも、トフィーです。
今回はいつもと趣向を変えて、文学部に在籍していたころの想いについてひたすら語っていきたいと思います。

文学部というくくりだと心理学や歴史なども含まれますが、ぼくが入っていたのは文豪と呼ばれる人の名作や古典について研究する『国文学科』です。

 

 

1.ぼくが文学部に入った理由

ぶっちゃけますが小説のネタ探しです。

文学を探求したい、考察を深めたい、伝統と文化を後世に伝えたい。
そんな殊勝な理由ではなく、かなり不純な理由だったかと思います。

あとセンター試験の一週間前になぜかポケモン(旧作)にどはまりし、こたつで怠惰な時間を過ごし、センター試験で点数を落とし、第一志望の学科のある大学への合格が絶望的になったから、次に興味のある文学部を選んだという背景もあります。

が、第一志望にしろ第二志望にしろ、興味関心の大小はあれど、根底にあった動機は「ネタ探し」だったのです。

いつからかはわかりませんが、少なくとも高校三年生のころのぼくはすでに「作家になりたい」という想いを抱くようになっていました。

とはいっても高校時代のぼくは、いや大学三年のころまでのぼくはただネタ帳未満のメモを残し続けるだけでした。
十分にインプットしなければ、アウトプットなどできるはずがないと考えていたからです。

それが間違いだったとは思いませんが、それでも多少なりとも書くという行為そのものになるという意味で、短編くらいにはチャレンジしてみればよかったと思います。
鱗滝何某さんに「判断が遅い」と怒られそうな亀っぷりですね。

今でこそ十二万字に渡る長編を書きあげて新人賞への応募も開始し、作家志望や作家が集うサロンにも入って、批評をいただくようになりましたが、もう一年くらい早く動くべきでした。
せめてのようにブログくらいは始めていればよかったかな……。

脱線しかかっているので戻します。

当時のぼくは講義で触れる作品を通して、研究を通してネタがみつかればいいかな、という感覚だったわけです。
「ストーリーのこういう点が面白い」、「キャラクターのこういう点が共感を呼んだために売れた」、「テーマが時代背景とあわずに人気が出なかった」といった作品の面白さや市場の分析のような講義があったりしないかなという期待もありました。(結論だけ言いますが、「技巧」をテーマとしたほんの一部の講義をのぞいて、それがメインのものはほとんどなかったです

当時のぼくは「作家になりたい」なんて誰にも言いませんでしたが(言ってもしょうがないことではありましたが)、そんな動機で文学部へと入ったものだからか、すぐに温度差を感じるようになりました。

 

2.文学部が向いていないタイプ紹介

 「軽い気持ちで文学部に入るな、死ぬぞ」

ぼくは死にました。
発表のために何度もぼこぼこにされました。

 

タイプ1.あがり症


第一のポイントとして文学部には発表が多いです。(そのかわりテストは少ない)
それゆえに、「ディベート力」のような機転が求められます。
これが欠如していると本当に厳しいです。

ここでまた自分の話に戻りますが、ぼくはあがり症のため本番に非常に弱く、敵(教授ら)を目の前にするともともと少ない思考力がさらに奪われてしまいます。
もうほんと、呆然としてしまうわけですよ。
さながら蛇に睨まれた蛙のように。

また質疑応答では思いもよらぬ質問が飛んできます。
その中には当然、自分の論の穴を突くようなものもままあるわけです。

冷静な状態ならば、もう少しはマシな回答もできたことでしょう。
けれども、発表中にはじっくりと考えるほどの猶予はありません。
だからといって黙っているわけにもいかないわけで、思考よりも先に口を動かすなんて無茶をやらざるをえなくなるわけですが、当然のことながら回答もめちゃくちゃになるわけで、最終的に死ぬしかなくなるのです。

国会答弁みたいに、事前に質問を明示しといてくださいよ、ほんと。

 

タイプ2.割り切りができない方

浅いと言われた考察のうち、およそ半分は内心納得していませんでした。
だってもうこの世にいない作家がなにを考えて、またどういう想いを込めて作品を書いたかなんて、確認するすべはないじゃないですか。

「考察」を展開するために、手記や雑誌のインタビューを引っ張ってきて根拠とすることは結構あります。
よく作家、とりわけ文豪を権威づける人がいますが、作家だって人間です。
人間の思考や感情は複雑なものです。
作家が自身の信念や哲学、政治観なんかを残していたとしても、それがその場の思いつきであったり、後づけの解説であったり、なんなら格好つけだったりする可能性さえもがあるわけです。
だからこそ真相は藪の中なわけで、明確な正解も間違いも判別しようがないじゃないかと。

なにが言いたいのかというと、作品について論を述べるにあたって、「参考にした先行研究に強弱もないわけで、考察も自由になされるべきである」と思ってしまったわけです。

あれは違う、これもおかしいと割り切って、整合性を見出して誰もがもっともらしいと思う論を述べる。
それがぼくにはできなかったわけで、ぼくは死んでしまったわけです。

 

タイプ3.文学に特別性を見いだせない方

ぼくは純文学も、大衆小説も、なんならライトノベルだって等しく価値があるものだと思います。

文学部にいて気になったのが、文学を崇高なものだと権威づけて、それ以外の小説を貶している人々がちょくちょくと見られたことです。

もちろん全員がそういうわけでは断じてないですし、なんならサブカルを容認して積極的に享受する人もたくさんいました。
なんなら、ゼミの時間中に『キングダム』の話で盛り上がる教授もいたといいます。(キングダムぱねえ)
けど、やっぱり文学至上主義的な考えを持つ人も見られたわけで。

繰り返しますが、ぼくは純文学も大衆文学もラノベも同等に価値があるものだと考えています。
ただ方向性が違うだけです。
詳しく語れば大きく脱線してしまいますので、ここでは省きますが、物語によって「人の心を癒したり、考えさせたり、成長させたり」と、心に影響を与えるという点においてはどれも大差ありません。

「純文学こそ至高、大衆小説やライトノベルなんて……」という考え方が大嫌いです。
最近、若者の活字離れが訴えられがちですが(そもそもそれも間違いだと思いますが)、彼ら彼女らが小説から距離を置いてしまうのには、もとをたどればそういった権威主義こそが理由の一つとしてあげられるのではないかと思います。
文学が価値あるもの、崇高なものであることは否定しませんが、そういった選民主義にも近い考えに触れるたびに辟易としてしまいました。

 

 ※過去記事。読書という行為に距離感がある方に向けて書いています。

www.kakidashitaratomaranai.info

 


けれども、文学が純粋に好きな人は文学部には向いている。
それだけの熱量を研究に向けることができるのですから。

ようするに考え方、ポリシーの違いです。
彼ら彼女らの考え方を全面的に否定するつもりはありません。
そうでなければ、「多様性が認められるべき」という想いから吐きだしてきたこれまでの主張が崩れ去ってしまいます。
けれども、否定させるつもりも断じてありません。

そういった点において我が母校は恵まれている方でしたが、大学によってはますます文学至上主義的な考え方にふれる場面が多くなるのかもと思います。

だからこそ、自分自身が文学を特別なものだと思えない場合には注意が必要です。
心が死んでしまいます。

 

3.学部選びは慎重に

エッセイみたいになってしまいましたが、以上がぼくが文学部に対して感じてきたことです。

あがり症の方、割り切れない方、文学を特別なものだと思えない方。
上記の方は一度踏みとどまって、「それでも文学部に入ってやっていけるのか」と落ち着いて考えてみてください。

さもないと、ぼくみたいに死にます。
教授や文学ガチ勢にボッコボコの凹にされますよ。

最後にもう二つだけ。
色々書きましたが、文学部(国文学科)はけっして悪いところではありません
色々な考え方やものの見方を学べましたし、文化や伝統を残すという活動は尊いものです。
ただ、間違って迷い込んでしまったぼくが悪いだけなのです。


そして最後に。
文学部の中にもいろいろな学科があります。
この記事を読んで「自分には文学部は向いていないのか……」と悲観的になるのはまだ早いです。
心理学、歴史学、場合によっては社会科学や経済学なんかも文学部に含まれることもあるでしょう。
色々な学科を調べてみて、できることなら体験講義なども受けてみてください。
「この教授のもとでなら頑張れそう」、「この分野なら取り組めそう」など新たな発見があるかもしれませんよ。

 


斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 外七篇 (文春文庫)

【夏に読みたい小説】八目迷『夏へのトンネル、さよならの出口』感想・レビュー【映画化決定】

 

「ノスタルジーな田舎の夏、鮮やかな青春とライトなSF」

【追記】2022年夏に映画公開決定!

 

どうもトフィーです。このブログを始めてから、本を読む量が倍増しました。

今回は八目迷先生の小説『夏へのトンネル、さよならの出口』を紹介していきます。
いい意味で、えげつない作品です。(語彙力)
デビュー作にして高い完成度を誇る作品で、見事にその世界観に引き込まれました。
ライトノベルにしては珍しく一巻完結にして、数巻分の満足度がえられます。

この小説の一番の美点は、巧みな情景描写でしょう。
筆力を感じさせる文章で綴られる、ひと夏の不思議な青春ストーリーには、読者を強く惹きつける力がありました。

そしてもう一点、この本を読み終えた時に「あともう一ヶ月、待てばよかった……」と後悔しました。

それほどまでに夏に読んで欲しい一冊です。

もちろん、いつ読んでも楽しめますけどね 笑

どちらかといえば、ライトノベルというよりはライト文芸に分類されるであろう作品だと思います。
またくっか先生の美麗なイラストに劣らない、清廉なストーリーでした。

 

一冊で奇麗に完結する物語なので、ハードルが低いのもオススメポイントです。


夏へのトンネル、さよならの出口 (ガガガ文庫)

 

 

 

1.あらすじ

「ウラシマトンネルって、知ってる?そこに入れば欲しいものがなんでも手に入るんだけど、その代わりに年を取っちゃうの―」。そんな都市伝説を耳にした高校生の塔野カオルは、偶然にもその日の夜にそれらしきトンネルを発見する。―このトンネルに入れば、五年前に死んだ妹を取り戻すことができるかも。放課後に一人でトンネルの検証を始めたカオルだったが、転校生の花城あんずに見つかってしまう。二人は互いの欲しいものを手に入れるために協力関係を結ぶのだが…。かつて誰も体験したことのない驚きに満ちた夏が始まる。

引用:夏へのトンネル、さよならの出口 (ガガガ文庫)

 

2.『夏へのトンネル、さよならの出口』の感想・レビュー

 

a.評価と情報


評価:★★★★★
ガガガ文庫
2019年7月刊行 
第13回小学館ライトノベル大賞「ガガガ賞&審査員特別賞」を受賞(レーベル史上初)

W受賞という快挙を成しとげた作品。
受賞時は『僕がウラシマトンネルを抜ける時』という題名でした。

またこの年には『クラスメイトが使い魔になりまして』についても、同じく『ガガガ賞&審査員特別賞』を受賞しています。

二作品がダブル受賞となった経緯について、ゲスト審査員を務めた浅井ラボ先生はこのように語っています。
『されど罪人は竜と躍る』で有名な先生ですね。

 

審査員である私と編集者各位と編集長という全員の評価が分かれ、当落と受賞で長い議論が続いた賞です。

《中略》

次に、方向性の違う二作品に上下をつけることは「この路線が正解で、あの路線は次点となる」と投稿者の方々に誤解させ、賞の方向性を狭める危険性がある、と私なりに考えました。
両作者がもし大賞に固執していたなら、私ではなく同時代に相手がいたことを恨んでください!
そこで異例ではありますが、私からの提案と編集部の協議の結果、ガガガ賞と審査員賞のW受賞者を二人としました。

引用:https://gagagabunko.jp/grandprix/entry13_FinalResult.html

 

ようするに受賞時の段階で、これほどまでの議論を引き起こすほどの魅力が『夏へのトンネル、さよならの出口』にはあったということです。
当時と比べるとタイトルだけでなく、おそらく内容も改良されているはずです。

ぼくも実際に読んでみて、W受賞に見合う内容だったと感じました。

【追記その1】
2020年7月にコミカライズが決定したそうです。
本当にめでたい‼ 


夏へのトンネル、さよならの出口 群青(1) (サンデーGXコミックス)

 

【追記その2】

な、なんと!
2022年の夏に、アニメ映画が公開されることが決定しました!

 

ビジュアルも公開されているのですが、もうめちゃくちゃテンションがあがりました。
監督は田口智久監督、制作はCLAPとのことで、キャストはまだ発表されていません。(2022年1月23日現在)
また続報があり次第、追記していきます。

 

 

b.四季シリーズについて

八目先生の2作目の小説、『きのうの春で、君を待つ』が発売されました。
今記事と同じように感想をあげておりますので、もしよければご覧ください。

www.kakidashitaratomaranai.info

 

また、『夏』『春』と季節を含むタイトルが続いていますが、『四季シリーズ』と称して、『秋』『冬』の物語も刊行される予定とのことです。
シリーズとついていますが、『夏トン』も『きのうの春で、君を待つ』も物語としての繋がりはないため、『秋』も『冬』もそれぞれ独立していて、1冊で完結するタイプの話になるのではないかと思います。

 

また『四季シリーズ』とは別で、『ミモザの告白』というシリーズものも刊行されました。
こちらもしっかりとした読み応えのあるラノベで、このラノで4位を獲得しています。
現在は2巻まで刊行されています。(22年1月25日現在)

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c.作品内容

 

この物語を、一文で説明するならば……
世界から置いて行かれることと代償に、欲しいものが手に入るトンネルへと潜る少年少女のボーイ・ミーツガール。
……といったところでしょうか。

「今」をとるか、失ったものを追い求めるのか。
彼らの選択と結果はその目で確かめていただくとして、この項では重大なネタバレを避けて語っていくとしましょう。


この物語にはエモーショナルな要素がこれでもかと詰め込まれています。
まず二章のタイトル、「汗とリンス」が超ハイセンス。
よくもまあ、この二つを組み合わせたなと脱帽しました。

続けて作品の中身について語ります。
ウラシマトンネルを介して展開される、少年少女の衝突や葛藤、友情とそれから恋愛。
「青春小説」として求められるもののほとんどが、この小説の中にはあるのではないでしょうか。

とにかく、グッとくる要素が盛りだくさん。
胸を締めつけるようなノスタルジックな田舎の夏。
どれくらい田舎かといえば、電車が鹿やイノシシとぶつかって遅延しても「またか」と思うほどです。

幼少期に経験した妹の死を、未だに実感できない主人公・塔野カオル
それ以降、上手くいかなくなっていしまった家族との関係。

そういった要素で引き込みつつ、また転校生の少女の存在をちらつかせながらも、カオルは一人でトンネルに挑みます。

その中を進むと、白い鳥居と松明が待ち受けていて、さらに過去に飼っていたインコや妹の遺品が現れます。
そういった神秘的な雰囲気をもちつつも、怪奇現象を引き起こすトンネルには背筋を凍らせるようなホラー感が漂っていて、先へと読み進める手を止めさせません。
この少しの不気味さという要素を含んでいることも、先ほど夏に読んで欲しいと述べた一因となっています。


数々のエモーショナルな要素×わずかなホラーで没入させるというこの構成が本当にうまいですね。
ちなみにですが、第二作目の『きのうの春で、君を待つ』でも同じ手法が取られています。
時をテーマとしている点でも共通していますし、ここまで紹介した夏トンの内容に惹かれた方には、あわせておすすめしたい一冊です。


もちろんひきこんだ後の展開も絶妙です。
カオルはうまくいかない現実に諦めきってしまっていましたが、転校生の少女・花城あんずとの出会いによって少しずつ変わっていきます。
そんな彼の一人称視点で、高校生たちの青春ストーリーが紡がれていくわけです。

まったくもってうまい作品です。
まさしく王道の詰め合わせ。
それを秀でた文章力で描きあげているわけで、より一層物語を美しく仕上げています。そりゃあ、面白くなるに決まっています。

 

ぼくも一応文章を書く身なわけですが、この本を読んでいると八目迷先生の才能に「ずるい」と思わず嫉妬してしまうわけです。
そりゃあ浅井ラボ先生も絶賛しますわと。
「ここからが青春小説の新時代」という浅井先生の帯の推薦文にも納得せざるをえません。
小学館ライトノベル大賞を狙っている方にとっては、研究対象として必読の一冊でしょう。


また純粋な読者としての感想としては、まだまだこの物語に浸っていたい、この先も読みたいというところでしょうか。
ページをめくるたびに「まだまだ終わって欲しくない」と思ってしまったのです。
もったいなさから、あえて物語を読み進めるのを中断してしまったくらいです。

もっとカオルやあんずの物語を見ていたい‼
その先の話も描いて欲しい‼
続刊が出たら間違いなく買うでしょうが、残念ながら一冊で綺麗に完結しています。
それがもったいと感じる一方で、同時に一冊だからこそのこの出来でありしょうがないかという思いもあります。

見方を変えれば、たった一冊だけで十分に楽しめる作品です。
だからこそ、あまり金銭的に余裕がない、あるいは忙しくて時間がないという方にもおすすめです。


人生でそこそこの量の小説を読んできましたが、ここまでの感情を抱かせてくれたモノは、ほんのわずかしかありません。
記憶をなくして、もう一度読み直したいレベルです。
だからこそ、自信をもって最高評価の星5をつけました。



d.キャラクター

塔野カオル

この物語の主人公。
五年前に妹のカレンを亡くし、それをきっかけに母は蒸発、精神的に不安定な父と二人暮らしをしています。
妹を死なせてしまった原因は自分にある、と自身を責め続けていた彼ですが、学校の帰りにたまたま噂で耳に挟んだ「ウラシマトンネル」を発見。
妹を取り戻すために探索を決意しますが、とある事情からあとをつけていた花城あんずに、トンネルの存在が発覚します。
彼はあんずに自身の過去を打ち明けます。
そして彼女と秘密の協力関係を結び、彼の日常もまた少しずつ変わっていきます。

 

花城あんず

この物語のヒロインで、表紙の少女です。
都会から引っ越してきた転校生ですが、初日から天才ぶりを発揮する一方で、人を寄せつけないような雰囲気を醸し出し、早くも孤高の存在となります。

花城あんずは自分に「基準」を課し、それをもとに行動する芯のある少女です。
クールだけど本当は子どもっぽい、現実主義者のようで夢追い人、強さと弱さを兼ね備えるなど、様々な「二面性」を有した非常に魅力的な女の子です。
イメージとしては、有名作品で例えるとするならば『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の雪ノ下雪乃と 、『いなくなれ、群青』の真辺由宇を足して割ったような性格、といったところでしょうか。

そんなあんずですが、カオルがウラシマトンネルに一週間閉じこもっていた間に、彼女を取り巻く環境が一変していました。
クラスを牛耳るわがまま女王・川崎小春に目をつけられていじめが始まっていたのです。
あんずは小春に対し、涼しい顔で完全無視を決め込み続けていましたが、「はぁ。もういいや。ちょっと殴るね」と宣言したのちに顔面グーパンチをお見舞い。
小春は報復のため上級生の先輩を引き連れ、あんずを教室から連れ出してしまいます。
そのあとを追うカオル(とその友人)。
色々とあったのち、あんずは彼の残したある言葉に興味持ち、その真意を尋ねるために彼のあとをつけるのでした。

その後は上での説明通り、カオルと協力関係を結び、ともにウラシマトンネルの探索を行っていきます。
うーん、カオルと比べて文章量が明らかに多いなあ……。

 


例のごとく、このあとには核心的なネタバレをふくむ感想を書き連ねています。
未読の方は、作品を一読してからご覧ください。
特に今回に限っては本当に……。


夏へのトンネル、さよならの出口 (ガガガ文庫)

 
またさらに先で『夏へのトンネル、さよならの出口』を読み終えた方に向けておすすめのライトノベルを紹介しています。
こちらのリンクを踏んでいただけると、ネタバレを飛ばすことができます。 
 
 
 
 
 
 
 

3.『夏へのトンネル、さよならの出口』ネタバレありの感想

「ウラシマトンネルを抜けると砂浜であった」

導入から幕引きまでのすべてが丁寧な小説でした。

大筋についてはおおかた予想通りでした。
塔野カオルが最終的にカレンを連れ出せないであろうこと、彼女の死を受け入れて「現実と向き合う力」を手に入れること。

一つ予想外だったのが、あんずがすぐにカオルを追いかけず、彼の願いの通りに漫画家をめざしたことでしょうか。
けれどもそれも納得のいく選択でした。
5年間待ち続け、22歳になってから決心がつきカオルを追いかけるその健気さには強く胸を撃たれました。

心を打たれたといえば、カレンから「愛するしかく」を受け取る場面もそう。
あれはずるい。感情のないアイムトフィーで有名な(?)ぼくでも、さすがに涙腺がゆるんでしまいました。

とまあ若干脱線しましたが、だいたい半分は展開が読めていたわけです。
それでもこの物語には感動させられました。
情景描写もそうですが、八目迷先生は感情の魅せ方がとにかくうまいわけで。
うえでも触れましたが、彼ら彼女らの選択には納得がありましたし、感情移入も容易にできるので応援もしたくなる。

トンネルを抜けたときには、二人とも社会的には30歳。
実際の年齢としては、カオルは17歳であんずは22歳、けれども同級生となんともちぐはぐで不思議な組み合わせ。
あんずもですが、カオルの13年と45日のブランクはきっと大きな壁となるでしょう。(そのうえ、中卒ですしね)
けれどもビジネスホテルでの無邪気なじゃれ合いっている様子からして、この二人なら苦労はしつつも、うまくやっていけるんじゃないかなと思います。
そしてきっと、父親と向き合える日も来るでしょう。

またこれから変わるかもしれませんが、現時点では「青春小説」というくくりで考えると、ぼく史上一番の作品だと思います。

最後になりますが、『夏へのトンネル、さよならの出口』はまちがいなく「重力のある小説」でした。

 

 

4.この作品を読み終えた方におすすめしたい小説

『きのうの春で、君を待つ』

夏トンに続く、八目迷先生の第二作目の小説。
ジャンルとしてはタイムリープもの。
それも、翌日の18時になると一昨日の18時へと戻る、記憶のロールバックによって空白の数日を埋めていくという珍しく新鮮なパターンです。

幼馴染の少女のために、亡くなった彼女の兄を救うために奔走する主人公ですが、少しずつ明かされていく真実と主人公の決断は鳥肌ものです。
相変わらずの美しい情景描写と、繊細な心情描写が物語を引き立てています。
夏トンがカチリとはまった方は、ぜひこちらもご覧ください。

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『サンタクロースを殺した。そして、キスをした。』

 

『夏へのトンネル、さよならの出口』とはまた違った、ビターな青春ストーリー。
作中の言葉を借りれば、「負けている人の物語」「なにかを失っている人の物語」です。

 

付き合っていた先輩と別れてから、灰色の日常を過ごし続けてきた主人公。
そんな彼が「望まない願いのみを叶えるノート」を持った少女と出会います。
二人はクリスマスをなくすために、疑似的な恋人関係を結ぶけれども……といったストーリーなんですが、この物語は意外な展開を見せます。

 

第14回小学館ライトノベル大賞「優秀賞」受賞作です。
ちなみに夏トンは、犬君雀先生にとって小学館ライトノベル大賞に応募するきっかけとなった作品とのこと。
だからこそ、こちらの作品もぜひ手に取っていただきたいです。

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 他にも様々な作品のレビューをしています。

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 ここまで目を通していただき、ありがとうございました。

【映画化決定の小説】三秋縋『恋する寄生虫』感想・レビュー

どうも、トフィーです。
今回は三秋縋先生の小説『恋する寄生虫』のレビューをさせていただきました。

『恋する寄生虫』といえば、これを原作とする映画化が発表されましたね。
それを見てああこの作品買ってたっけなと、積み本の中から発掘しました。
3年越しになりますがようやく読み終えたぜいといった感じです。

積み本、消化しなきゃなあ……。

 
恋する寄生虫 (メディアワークス文庫)

 

 1.あらすじ

「ねえ、高坂さんは、こんな風に考えたことはない? 自分はこのまま、誰と愛し合うこともなく死んでいくんじゃないか。自分が死んだとき、涙を流してくれる人間は一人もいないんじゃないか」
失業中の青年・高坂賢吾と不登校の少女・佐薙ひじり。一見何もかもが噛み合わない二人は、社会復帰に向けてリハビリを共に行う中で惹かれ合い、やがて恋に落ちる。
しかし、幸福な日々はそう長くは続かなかった。彼らは知らずにいた。二人の恋が、<虫>によってもたらされた「操り人形の恋」に過ぎないことを――。
引用:恋する寄生虫 (メディアワークス文庫)

 

 2.『恋する寄生虫』感想・レビュー

★★★☆☆
メディアワークス文庫
2016924日刊行


さっそくストーリーの内容を紹介していきましょう。
『恋する寄生虫』の前半では、プラトニックな恋愛模様が描かれます。

きっかけは脅迫でした。
主人公・高坂賢吾のもとに和泉と名乗る謎の男が現れます。
そして彼はこう言うのです。

お前の犯罪行為を告発されたくなければ、こちらの要求に従え。
まずは佐薙ひじりと友達になれと。

高坂は困惑しつつも要求を受け入れるほかにありません。
和泉に指示されるままに、佐薙ひじりと接触していきます。
とこのようにきっかけこそ異常ではありましたが、二人は少しずつ距離を縮めていきました。

というのも27歳の男性と17歳の少女には、とある共通点があることが明らかになったのです。
実は二人はそれぞれ重度の症状を患っていて、それによって社会生活がままならない状況に陥っていたのです。
そんな二人だからこそ、互いの秘密を共有することで心の距離が縮まっていくのは当然のことだといえるのでしょう。

そして他人を汚らわしいと思っていたはずの高坂は、佐薙だけは触れられるようになっていきます。
一方で佐薙も、人の目が気になりヘッドホンなしでは他人を意識するあまりに歩くこともままならなかったはずが、高坂が近くにいればそれが緩和されていきます。

二人でいれば大丈夫だ
そういった安心感から、二人は積極的に関わるようになっていきます。
二人は互いに確信し、『リハビリ』のためにともに外出するようになります。
そして、高坂の部屋に戻っては二人だけの時間を過ごしていく、そんな日々を過ごしていきました。

そうして二人はだんだんと惹かれあい、ついには恋愛感情を抱くようになります。
――――けれどもその感情は、によってもたらされたものだったのです。

以上がストーリー前半部の概要です。
ちょっと説明しすぎたかとも思いますが、おおむねあらすじからわかることなのでいい、かな……?


今回、この小説には星3という評価をつけさせていただきました。
星4以上としなかった理由としましては、次に挙げる二点が大きかったです。

一つ目は中盤に寄生虫に関する説明が続き、そこがやや難しく退屈に感じられたこと。二つ目は中盤以降が盛り上がりに欠け、個人的には物足りなさを感じてしまったことです。

そのため3評価としましたが、それでもこの小説には読む価値が十分にあるかと思います。

流れるように綺麗な文章は、どこか切ない物語の世界観とマッチしていますし、感情の機微は巧みに描かれている。
だからこそ登場人物に共感できます。

キャラクターとどうしようもなくやるせない空気感が好きな方であれば楽しめるのではないでしょうか。


『恋する寄生虫』ですが、漫画版も出ています。
全三巻と集めやすい巻数ですので、映画の予習であればコミカライズ版でもいいかと思います。

 

 次の記事です。

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これより以下はネタバレを含みますので、未読の方はご注意ください。 

 

 

 

 

 

 

 

3.恋愛小説の皮を被った哲学的なテーマを持つ作品(ネタバレ注意)

 

『恋する寄生虫』のテーマは意志とはなにか、というところにまで掘り下げられます。
以下のひじりの台詞はそれを象徴しています。

「紛いものの恋の何が悪いの? 幸せでいられるなら、私は傀儡のままで一向に構わない。<虫>は、私にはできなかったことをやってみせたの。私に、人を好きになることを教えてくれたの。どうしてその恩人を殺さないといけないの? 私は操り糸の存在を知った上で、それにあえて身を任せているんだよ。これが自分の意志でなくてなんだっていうの?」

『恋する寄生虫』239頁より引用

 

彼女のこの言葉には「なるほど」と納得してしまいます。
幸福であることが、人生において至上のことであるのなら、たとえ操られていてもさしたる問題はないでしょう。

しかし、その一方でこうも思うわけです。

「あえて身を任せる」というひじりの選択さえもが、<虫>によってなされたものなのだとしたら。
はたして彼女には意志があるといえるのだろうかと。

ここまでくれば、ひじりの意志と<虫>の意志との間に境界はありません。
どれが彼女による選択なのか、このときの彼女はその真偽を確認するすべを持ち合わせていませんし、「自分の意志」の定義がまた曖昧になってきます。

だからこそ、ひじりのように自分の感情のままに動くことも、高坂のようにそれを拒むことも、どちらも間違いだとはいえないわけです。

押しつけられたモノを新たな意志として享受するそのありようは、ぼくの一番好きな小説『ハーモニー』を連想させます。
『恋する寄生虫』についても突き詰めて考えれば、『ハーモニー』と同様にそもそも人間に意志は必要なのかというところにまで行きつきます。
(問いかけ方の形式こそ違いますが、幸福であることを最重要視し、もとの自分の意志を捨て去るその姿勢は同じです)

ファンタジックな恋愛小説かと思われたその中身は、実際のところSFチックで哲学的な内容でした。

 

 

ネット辞書と紙の辞典の特徴を比較する|個性的な面白い辞典・事典

どうも、トフィーです。

 

言葉の意味を確認したり、ちょっとした調べ物をしたいと思った時、まず皆さんはどのような手段を用いますか?

 

多くの方はまず最初に、今まさに使用されているスマホやパソコンを使うかと思います。

 

今の時代、調べ物をする際には、インターネットでの検索や電子辞書の使用など、紙ではないメディアが主流になってきています。ネットの方が便利だから、紙はかさばるから、色々な理由が挙げられるでしょう。

 

けれども、紙の辞典には紙の良さがある。本記事では、「インターネットの国語辞典と紙の国語辞典について」のそれぞれの特徴を比較し、それぞれのメリットとデメリットについて見ていこうかと思います。

 

 


三省堂国語辞典 第七版

 

紙の辞書は売れなくなってきている

近年、紙媒体の辞書の売上が低下してきています。『三省堂国語辞典』編集委員の飯間浩明氏によると、『広辞苑』は1991年で第4版が発売1年で120万部売れましたが、2008年の第6版は30数万部まで減少。

 

また、『大辞林』は1988年の初版1年で約80万部売れていた一方で、2006年の3版は目標数の10万部にも達しなかったそうです。

 

理由としては、やはり電子辞書やインターネットの普及が挙げられます。かさばらず、手書き検索も出来る、画像や音情報も含めて手軽に調べることが可能。こんな超便利ツールが用いられる傾向になるのは当然でしょう。

 

『辞書の仕事』の著者・増井元氏によると、「電子辞書が本の形で作った辞書をそのまま電子化している間は」編者・執筆者が不要になることはないけれども、「はじめから電子辞書を作るためにデータを収集し、用途や規模にあわせて編集方針を立て、原稿を整えて、電子辞書の諸機能を生かし切る情報とフォーマットとの研究が進めば、その過程で辞書編纂術(レキシコグラフィー)も電子辞書特有のものへと変わることになる」そうです。

 

これは電子辞書だけでなく、インターネットの辞書も同様でしょう。このような状況にある紙の辞書について、その優位性をこの記事で考えていきたいと思います。

 

 

インターネットの辞書と紙の辞書の違いを比較する

と、その前にもう少しインターネットの辞書について見ていきましょう。

 

 

ネットの辞書の種類とメリット:「大辞林」「大辞泉」etc.

ネットで使うことのできる国語辞典としては、有名どころだと「大辞林」「大辞泉」。また、Googleの検索画面では「岩波国語辞典」が表示されます。それ以外にも、膨大な項目を収録するWikipediaをはじめとして、言葉を調べる手段は多くあり、また類語や画像なども検索可能です。

 

飯間浩明『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 国語辞典のゆくえ(NHKシリーズ)』によると2017年6月時点では、「大辞林」には約24万語、「大辞泉」には約29万語弱(有料版では更に多い)が収録されており、これは大型辞典だといえますこんな膨大な量の言葉を収めるとなると、やはり紙の辞典では難しいでしょう。 

 

また、同著によると「岩波国語辞典」には約6万語が収録されており、小型辞典クラスの量の語が検索可能。大辞林ほどではないものの、語数が多いために求める語が見つかりやすいです。

 

「膨大な語数」といえば、全13巻プラス1巻もの冊数の大型辞典『日本国語大辞典』があります。サンキュータツオ氏によると、改訂は大学院生を含めた何千人もの研究者らが何十年もかけて行うために、語源から現在までの変遷をも記載した辞書の最高権威だといえるようです。JapanKnowledgeでは、2版では50万もの項目を収録しているとの記述があり、有料ではあるもののネット上でも見ることが出来ます。

 

しかし、上記の「大辞林」などのように無料ではないという点、紙媒体の場合は調べることに手間がかかる点、また紙媒体の場合は個人での購入も所有も難しい点から、優位性という意味では微妙なところです。

 

ネット版の辞書の優位性はまだあります。それは紙の辞書と違い、自由に増補が出来るという点です同著によると、その多くは新語(新造語、転用語、新出語のうちやはり転用語が多い)であり、「大辞泉」の場合、収録語数は2009年では約22万語でしたが、2016年では約28万語と7年間で6万語も語数を増やしています。

 

「大辞泉」で新たに追加された語について、同書ではこのような例も挙げられていました。

スマホ断ち 一定期間、スマートホン(スマホ)の使用を控えること。

ツイッター疲れ ツイッター上での他人とのコミュニケーションによる気疲れ。

VR酔い バーチャルリアリティー(仮想現実)の映像によって生じる、乗り物酔いに似た状態。映像酔いの一種。〔下略〕

 

 

 

スマホやTwitterなどについては、私がまだ中学生の頃に流行り出し、「VR酔い」に関してはさらに近年見られるようになった言葉です。これらのような、細かく、新しい用語を載せられるのは、ネットの辞書だからこそでしょう。

 

 

ネットのデメリット:紙の辞書の特徴

 

このような優位性がある一方で、もちろん紙の辞書と比べて劣る点もいくつかあります。

 

その1つは信頼性。増井氏はインターネットの辞書について「ネットという場は編者・執筆者と利用者の境界が非常にあいまいになるところでもある」と指摘し、「そこで形成される知識の集積が「辞書」と呼べるものかどうか、私にはにわかに判断できません」と述べています。

 

Wikipediaなどは誰でも容易に編集できますが、その分間違った情報が載せられてしまうことがあります。紙の辞書に一切の間違いがないとは言えませんが、誤情報を掴んでしまうリスクはネットの方があるでしょう。

 

またインターネットの辞書について、飯間氏もまた全面的に認めているわけではないようです。飯間氏は、辞典の価値について考えるとき、①「説明の仕方」②「独自の発見」③「ことばに対する見方」の3つの要素について考える必要があるとし、これらの要素はインターネットの辞書では十分ではないと指摘しています。

 

たとえば、①の「説明の仕方」について、飯間氏は『広辞苑』(第6版)、『明鏡国語辞典』(第2版)、『新明解国語辞典』(第7版)、『三省堂国語辞典』(第7版)中の「勝つ」の例を取り上げ、それぞれの特徴について述べています。

 

飯間氏によると、『広辞苑』は、古典と現代両方の例を載せており、古典を重視し、『明鏡国語辞典』では「~に勝つ」「~で勝つ」「~が勝つ」と様々な助詞との接続パターンをあげ、助詞・文法に力を入れているそうです。

 

また、『新明解国語辞典』は「負ける」を使わずに説明し、長くなることも厭わずに語のニュアンスを表現することに努めており、飯間氏も編集委員として加わる『三省堂国語辞典』は子どもが話しているように率直に、「要するにどういうことか」が分かるように簡単に説明することを目指しています。

 

それぞれの辞書にはこのような特徴がありますが、飯間氏曰くネットの辞書はオーソドックスで特徴を問われても答えにくい。裏を返せば、オーソドックスであることが特徴だともいえます。

 

 

紙の辞書には個性がある

 

上述した②の「独自の発見」について、飯間氏のあげる例を2つ記載します。

 

『岩波国語辞典』(第7版)では、「追い抜かす」を「主にスポーツで、「追いぬく」の意。追い越す。「早くあいつを―・して関取になりたい」▽二十世紀末から急増した言い方。」と説明していて、〈主にスポーツで〉〈二十世紀末から〉は辞書の作成者の観察の賜物だと飯間氏は述べています。

 

『三省堂国語辞典』(第7版)は、「なるべく」について「①ぎりぎりまで がんばって。「―早く仕上げよう」②無理のない範囲で。「―〔=行けたら〕行きます」③希望を言えば。「―(なら)このままですませたい」」と解説しています。『三省堂国語辞典』は、①②のように、一生懸命な意味での使用とやる気のない意味での使用の二面性を指摘しており、これは他の辞書より恐らく早かったと飯間氏は述べています。

 

③の「ことばに対する見方」については、「辞書の特徴を根本的に決定する要素」と言及しています。「歴史的なことばを重視するか、現代語を重視するか」、「ことばに正しい・間違いという区別はあるか、それとも一概に決められないか」、「文法をどう捉えるか」などです。

 

例として、多くの辞書が連体詞に分類する「大きな」を『新選国語辞典』では形容動詞に分類していることなどがあげられています。

 

飯間氏は、これからの国語辞典は間違いなく電子版が主流になる述べています。そして、電子版で利用できる辞書が多くなり、どれも同じだと思う利用者から淘汰されないためにも、よりはっきりとした個性を強めていくことが必要であるとも。

 

そして飯間氏が関わる『三省堂国語辞典』はこれからも、より「短い行で要点を押さえて」「どういう意味か」を説明していくことを目指しています。

 

 

あえて紙の辞書を使う理由について

 

以上のことをふまえて考えられる紙媒体の辞書の優位性とは、限られたページ数で説明するために、様々な種類の辞書が一つ一つの言葉についてそれぞれ吟味し、それを独自の方法で説明している点にあるでしょう。それぞれ違うアプローチでの説明を試行錯誤しているため、きっと自分に適した辞書も見つけられます。

 

また洗練された説明が載せられているため情報の信憑性も高いことも、紙の辞書を選ぶ理由になります。

 

また増井氏は、「紙の辞書の方が項目全体の見通し」が効き、「いま探しているのではない項目に目が行く」という点も紙の辞書ならではだと述べています。興味の範囲外にある語彙を増やしやすいのです。

 

さらに挙げるとするならば、サンキュータツオ氏も「項目の大きさ」で「編者がどこに力を入れているのか」知ることができる点を紙の辞書の利点とし、さらに「手を使う」ことで記憶に残りやすく「知識を定着させる」ことに関しては優れていると述べています。

 

こうして色々と比べてきましたが、結局のところ紙の辞書と電子辞書やネットの辞書を併用していくのが、今も、そして将来もベストであり続けるかと思います。

 

 

おすすめの辞典・事典

 

個人的にはわかりやすい『三省堂国語辞典』、接続のしかたを紹介してくれる『明鏡国語辞典』がおすすめです。


三省堂国語辞典 第七版

 


明鏡国語辞典 第三版

 

まだまだ紹介できていないものもたくさんあるので、これからも記事にしていけたらと考えています。

 

もちろんここで取り上げたものに限らず、よりあなたと相性のいい辞書もあることでしょう。 ぜひとも色々な辞書に触れてみてください。

 

 

参考文献一覧

・飯間浩明『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 国語辞典のゆくえ(NHKシリーズ)』(NHK出版 2017年7月1日)

・増井元『辞書の仕事』(2013年10月18日、岩波新書)

・サンキュータツオ『学校では教えてくれない!国語辞典の遊び方』(株式会社角川学芸出版、2013年3月25日)

著者は元モサド『スパイのためのハンドブック』|レビュー・内容紹介

 

どうもトフィーです。

 

ここを閲覧しているということは、あなたはきっとスパイ志望者なのでしょう。え、違う? いやいや、自分で気づいてないだけで、あなたはスパイ志望者なんですって。

 

そんなあなたに、おすすめの一冊があります。

 

その今回お勧めする本が、こちら『スパイのためのハンドブック』です。


スパイのためのハンドブック (ハヤカワ文庫 NF 79)

 

この本では、スパイ(インテリジェンスともいう)についてのあれこれが語られています。

 

著者のウォルフガング・ロッツは、秘密諜報部員(モサド)所属のトップ・エージェントとして活躍したという経歴があります。

 

この本には、そんな著者の体験をもとにした様々なエピソードを交えつつ、スパイになるためのイロハが綴られていきます。その中には、なんと刑務所に収監された時の話もうーん、もうこれだけで濃い。

 

日常生活でも使えそうな、いや使ったらまずいような知識が多く載せられていて、スパイになりたいという方は必読の一冊です。

 

 

1.適正テスト

 

この本は、まず第一章で10個の質問を投げかけてきます。いきなり読者のスパイ適性をテストしてくるわけですね。

 

それぞれの質問はスパイに必要とされる能力、たとえば「嘘をつく能力」やら「情報収集」などを見抜くためのものなのですが、ここでだいたいのスパイ志望者がふるいにかけられることになるのです。

 

まあ、スパイへの適性が低いということは、それだけまっとうな人間であることの証明になりますので落ち込まないでください。それぞれのスタンスを自覚して、先のページを楽しく読み進めていけばいいのですから。

 

25歳から35歳が適正年齢」というのは、覆しようもない条件のためにムスッとはしてしまいますが……

 

 2.内容紹介(スパイに必要とされるテクニック)

①生き残ること

「事態が許すなら、規則の一つや二つを曲げるのをためらうな。また、任務を遂行し、無傷で生き残る助けになるのであったら、ぜひとも規則を破れ。この仕事に就く者は才覚だけをたよりに生き、そして生き続けるということを忘れるな。頭を使え!」(『スパイのためのハンドブック』より引用)

 

スパイといえども、厳密に規則を守らなければならないというわけでもないようです。まあ捕まってしまったら、情報なんていくらでも抜かれてしまいますからね。この点は、『ジョーカー・ゲーム』の「死ぬな、殺すな」を思い出させます。

 

➁尾行について

「影のようにつきまとうこと、つまり尾行には、公然とするのと隠れてするのと二種類のやりかたがある」(『スパイのためのハンドブック』より引用)

 

 

前者は尾行されているという不安感を与えることで対象が秘密活動に従事するのを妨げるために行い、外交特権を持つ人々に対し用いられる。比較的簡単。

 

難しいのは後者、目標が立ち止まったら無関心を装って前を通り過ぎてしばらく行ったところで、ショーウィンドウなんかを眺めながら無害を装って待つ。

 

時々建物の出入口に姿を消して、帽子やサングラスなんかを使って変装する。相手が疑り深い場合は、複数人で尾行する。角を曲がるときは、ゆっくりと用心深く。とにかく、テクニックが必要なのです。

 

他にも個人情報の集め方までもが書いてありますが、詳細は記しません。さすがにまずいですからね。といってもいろんな意味で容易には真似できるものではありませんが。

 

そしてこれらのテクニックを身につけるために、見習い時代はとにかく訓練を行います。それも156時間かけて、無差別に選んだ人間相手に疑念を抱かせないようにしながら。キツイ……。

(実際にやらないで‼︎  ストーカー扱いされますよ)

 

③偽装を構成する要素 

偽装について、著者は次のように述べています。「偽装とは、一人の工作員が任務継続期間中に用いる身元である」

そして正しい偽装を構成する要素として、以下の8つを挙げています。それぞれ

 

ⅰ)偽装はニセ経歴にもとづき、その設定に必要な分の知識や経験を身につけておかなければいけない。

たとえば西アフリカで8年暮らしたという設定ならば、そこの事情に十分に精通しておかなければいけない

 

ⅱ)偽装は自分の外見に合わせて行う。その逆はNG!

(たとえば虚弱体質が、軍人を装うのは無理がある)

 

ⅲ)偽装に利用した人物の外見はもちろんのこと、その性格や性癖までをも考慮する

(生粋のプレイボーイはプレイボーイのままでいなさい)

 

ⅳ)資格を持っていない専門職や、肩書きを偽装に用いるべきではない。

(医者に偽装するなら、最低56年の経験が必要。緊急時にバレる)

 

ⅴ)偽装と生活様式が完全に適合していなければいけない。

(一介の労働者を偽装するならベンツに乗るのはNG。反対に富裕層を装うなら、オートバイには乗ってはいけないし、経費削減をしてはいけない。スパイたるもの、できる限り普通を演じなければならない)

 

ⅵ)ニセ経歴は真実に近いものでなければならない。

事実に細部を肉付けすることで、弱点が目立ちにくくなる。

 

ⅶ)現地の法律や規則は遵守せよ。

 

ⅷ)逮捕された場合は、偽装中の偽装という詐術を使え。

たとえばデパートの中の秘密書類を盗もうとした場合、スパイであることは自供せずに泥棒だと自供する。そうすれば結果的に罪が軽くなる。

 

④その他

相手がスパイであることに気がついても、あえて泳がせておくのも有効な手段です。なぜかといえば、捕まえてしまえば別の人物が送り込まれ、再度見破るのが難しくなるかもしれないから。だからそのスパイが関係の良好な国の者であれば、放置しておく方が得策なんですよね。

 

『スパイのためのハンドブック』には他にも多くの知識が載せられています。部屋に誰かが侵入したかを確認する方法だったり、情報の伝達の仕方だったり。気になる方は、ぜひとも自分の目で見て確認してくださいな。

 

 

他にもこんな記事を書いています! どれも非常にためになるおすすめの本です。

www.kakidashitaratomaranai.info

 

www.kakidashitaratomaranai.info

 

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名著『ファクトフルネス』紹介|分断本能をさらにわかりやすく要約

どうもトフィーです。今回紹介するのは、『FACTFULNESS 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』です。あのビル・ゲイツも絶賛したという名著、というと気になりませんか? 

 


FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

 

抵抗感を持たないで‼ これは決して難しい本ではありません。本書はたとえ話なんかも盛り込みながら、わかりやすく丁寧に進行していくために非常に読みやすい、それでいてためになる。世界100万部超の大ベストセラーとなったのも頷けます。

 

皆さんへの挑戦状 (世界についての3つのクイズ)

 

さて、早速ですが、本書から設問を3つ引用しましょう。みなさんは、どれくらい正解できますか?

 

「現在、低所得国に暮らす女子の何割が、初等教育を修了するでしょう?」

A 20%  B 40%  C 60%

 

「世界中の1歳児の中で、なんらかの病気に対して予防接種を受けている子どもはどのくらいいるでしょう?」

A 20%  B 50%  C 80%

 

「いくらかでも電気が使える人は、世界にどのくらいいるでしょう?」

A 20%  B 50%  C 80%

 

 

みなさんは全部迷いなく選べましたでしょうか? 正解はすべてCです。

(ちなみに平均正答率は1問目が7%、2問目が13%。3つめは国別正答率最高がノルウェーの32%で日本は15%です。だから間違えても落胆しないで!)

 

 

 

ハンス・ロスリングらはこの手の12の質問を、何千人もの人々に対して行ってきました。そして、衝撃の事実がわかりました。なんと平均正答数は12問中たったの2問しかなかったこと。さらにはその中には、医学生・大学教授・科学者・企業の役員・ジャーナリストや政治家なども含まれおり、頭のいいとされるような人たちでさえも正答率が低かったということです。

 

多くの人が誤った見方で世界を捉えています。

 

ハンスは我々に問いかけます。「世界は戦争、暴力、自然災害、人災腐敗が絶えず、どんどん物騒になっている。金持ちはより一層金持ちになり、貧乏人はより一層貧乏人になり、貧困は増え続ける一方だ。何もしなければ天然資源ももうすぐつきてしまう」という先入観を持っていないかと。そう、これらは先入観です。

彼はこのような先入観を『ドラマチックすぎる世界の見方』と呼称しています。そしてこうも言っています。そんな見方をしてしまうのは、「悪徳メディア、プロパガンダ、フェイクニュース、低質な情報のせいではない」と。これらは人間の本能によるものだと。

 

これらの本能は、日常生活においては必要不可欠なものだけれども、ある程度抑えなければ、世界を誤った目で見てしまうことになります。それらの本能は以下の10種類です。

 

①分断本能、②ネガティブ本能、③直線本能、④恐怖本能、⑤過大視本能、⑥パターン本能、⑦宿命本能、⑧単純化本能、⑨犯人捜し本能、⑩焦り本能

 

 

本書ではこれらの本能とその対処法を紹介しています。わかりやすい言い回しで、たとえ話なども盛り込んで解説してくれているために、非常に読みやすい。

 

ここではそのうちの1つ、「分断本能」をダイジェストに紹介していきます。

 

【分断本能】『FACTFULNESS 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』からの解説・要約

「現在、低所得国に暮らす女子の何割が、初等教育を修了するでしょう?」

C 60%(正答率は7%)

 

人はしばしば「世界は分断されていると思い込んでしまいます。分断して考えたがります。

たとえば「途上国と先進国」、「金持ちグループと貧困グループ」、「西洋諸国とその他の国々」、「あの人たちと私たち」など……。

 

それらの分け方はだいたい不適切です。多くの場合、分断などは存在しません。あちらとこちらと、たった2つに分けるやり方は視野を狭めてしまいます。なぜかってそれは、誰もいないと思われていた中間部分に大半の人がいるのですから。ハンスはデータを用いてぼくたちの幻想を壊します。

 

たとえば世界で最も多くの人が住んでいるのは、「高所得国」でも「低所得国」でもなく、「中所得国」だということ。そして人々を所得レベルでより細分化するとレベル1からレベル4にわけられます。「貧困層」と聞けば多くの人がイメージするのはこの中でのレベル1の人々の生活ですが、実は人口でいえばおよそ10億人。

 

レベル2には30億人、レベル3には20億人。そしてレベル4には10億人で、多くの日本人はここにいます。

 

「あの人たちと私たち」といった具合に分断して考えると、およそ30億人の人々を取りこぼしてしまうことになる……。これでは正しい支援なんかできるはずもありませんよね。

 

 

まとめとしては、話の中の「分断」を示す言葉に気がつき、大半の人がどこにいるかを探すこと。これが重要です。

 

 

分断本能についてはここまで。気になる方はぜひ現物に目を通してみてください。もっと詳しく書かれていますし、他の9項目も同じくらいにためになりますので。

 

 

 

他にはこんな記事を書いています。エンタメ多めですが、今回のような系統の本もちょこちょこと扱っていければと考えています。

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『天才王子の赤字国家再生術~そうだ、売国しよう~』が面白い

どうも、またトフィーです。今回はおすすめのライトノベル『天才王子の赤字国家再生術 ~そうだ、売国しよう~』紹介したいと思います。ぼくが今一番推したいライトノベルです。いい意味で予想を裏切られた傑作でした。

 


天才王子の赤字国家再生術 ~そうだ、売国しよう~ (GA文庫)

 

  

①あらすじ

「さすが殿下! これが狙いとは! 」

「どこまでもついて参ります! 」

「殿下! 」「殿下! 」「殿下! 」「殿下! 」

『(一体どうしてこうなった!?)』

資源も人材も兵力もない弱小国家を背負うことになった若き王子ウェイン。

文武に秀で、臣下からの信頼も厚い彼にはひそかな願いがあった。

「国売ってトンズラしてえええ! 」

そう、王子の本性は悠々自適の隠居生活を目論む売国奴だったのだ!

だが、大国に媚びを売ろうと外交すれば予期せず一方的に利益を手にし隣国との戦争で程よく勝とうとすれば大勝利。名声は上がるが売国は遠のき、臣民はイケイケ状態で退くに退けない!?

天才王子による予想外だらけの弱小国家運営譚、開幕!

引用:天才王子の赤字国家再生術 ~そうだ、売国しよう~ (GA文庫)

 

 

②『そうだ売国しよう』1巻の内容紹介と感想・レビュー(ネタバレなし)

 

評価:★★★★★

GA文庫

2018年5月刊行(第1巻) 、2020年現在6巻まで刊行、6月12日に最新7巻発売予定。

このライトノベルがすごい!文庫新作ランキング第4位!

 

さて、『天才王子の赤字国家再生術 ~そうだ、売国しよう~』の内容紹介、および感想とレビューをしていこうかと思います。

 

いい意味で裏切られた作品でした。正直に言ってしまえば表紙買いしたわけですが、数ページ読んでみると思いのほか面白い。いつの間にか作品それ自体のファンになっていました。これは嬉しい誤算です。

 

ぼくは最近、ライトノベルは単巻で読み終えてしまい、続きを購入するといったことがほとんどないのですが、この作品に関しては6巻まで読破しています。

確か1巻を読み終えた次の日に、えっちらおっちらと自転車を漕いで近くの書店へと向かい、当時発売されていた3巻まで購入した記憶があります。4巻か5巻かが発売されたときには、近くの書店の在庫分がたまたま売り切れていたために、Auraくん(このブログの共著者)に車でちょっと大きなTSUTAYAに連れて行ってもらいました。

Aura、あのときはありがとうな。

 

とまあ、上記の様に続きが非常に気になる上に、非常に読みやすく、楽しく読める作品でしたので文句なしの星5評価。ライトノベルに限れば、最近の作品では一番お気に入りと言ってもいいでしょう。

 

さて、そろそろ内容紹介へと移りましょう。

 

主人公のウェインは、ナトラ王国王太子。病に倒れた王に代わり摂政となるわけですが、優秀であるがゆえに自国の詰みっぷりが見えてしまい、折を見て売国してやろうと目論んでいます。

しかし天才のウェインでも意図せぬ事態が起こります。それは大陸東の覇権国家・アースワルド帝国の皇帝が後継者を指名しないままに崩御してしまいます。これにより、世界情勢は急激に動き出し、主人公のウェインも次々とトラブルに巻き込まれてしまうことになるのです。

 

この主人公、個人的には非常に好感の持てるキャラクターでした。

売国するといっても、国民を大事に思っているので、穏当に王政から解放されようという程度のもの。危機になればその知略をもって、国のために戦いますし、その姿が非常にかっこいい。

 

そしてなによりも、幼なじみであり補佐官でもあるニニムへの思いやりがエモエモのエモです。(唐突な語彙力消失)

普段は二人きりになると遠慮なく軽口を言い合う仲ですが、ウェインは彼女に全幅の信頼を寄せており、それは『自分の心臓』とまで呼ぶほどです。彼女はフラム人という人種で、西側諸国では差別の対象になってしまうような生まれです。

1巻ではそんな西側の国マーデンとの一悶着が話のメインな訳ですが……。ニニムを悪く言われたウェインがどのように動くのかといった点も一つの見どころと言えるでしょう。

 

他にも何人かキャラクターが登場しますが、その誰もが見ていて気持ちいい。シリーズが続くに連れて掘り下げも深まっていき、鳥羽徹先生はキャラクターを非常に大事にされている印象を受けます。

 

この作品、いわゆる俺tueee系ではあると思いますが、その描写にも説得力があります。

ぼくは物語を見るときに、自己投影するタイプではなく、あくまでも第三者として見る楽しみ方をしています。そのため、説得力のない俺tueeeは苦手です。

けれどもこの作品での主人公は国の歴史をしっかりと学び、内外の情勢を観察し、臣下の意見にも耳を傾けて重用していて、与えられたチート能力ではい解決といった強引な展開はありません。

またご都合主義感も薄いため、彼の優秀さにも納得できますし、見ていて応援したくなるようなキャラクターとなっていました。

そんな彼だからこそ国家運営も楽しめますし、軍記物としてもしっかりとストーリーが展開されていくので非常に見応えがあります。

 


天才王子の赤字国家再生術 ~そうだ、売国しよう~ (GA文庫)

 

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③『そうだ売国しよう』6巻の感想・レビュー(ネタバレ全開でいきます)、7巻の発売日


天才王子の赤字国家再生術6 ~そうだ、売国しよう~ (GA文庫)

 

今度の舞台は海です。

 

なんですがウェインらの乗る船が所属不明船からの襲撃にあい、彼はニニムを庇って海に投げ出され、そこを捕縛されてしまいます。相変わらずいざという時には、自分よりもニニムを優先するウェインの姿勢はかっこいい。

 

そしてそのまま投獄されてしまうわけでありますが、口先で相手を揺さぶり、牢屋の中にいるにも関わらずベッドやらワインやらを献上させてと面白い。

 

また、投獄された彼の元へニニムが駆けつけるシーンはもう最高。中盤での水着を恥じらうシーンも最高。第6巻は、ニニム推しにとっては最高の一冊です。

 

それから忘れてはいけないのがザリフ家新当主フェリテ、今作の主人公ともいえるザリフの次男。今作は彼の成長が見どころ満載です。

今まではあまり描かれてこなかった男同士の友情。歳も立場も似通ってる二人。ニニムとアピスがこっそりと彼らを見つめて笑みを浮かべるシーン。どれもグッときました。やっぱり主人公以外にもきちんと活躍するキャラクターがいると面白いですね。

 

引きも気になりますね。次巻、帝国でなにが起こるのか、非常に気になります。

ちなみに7巻は6月12日に発売予定とのことです。


天才王子の赤字国家再生術7 ~そうだ、売国しよう~ (GA文庫)