書き出したら止まらない

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詩を(ライトに)読む ~『萩原朔太郎詩集』編①~

何かにつけ人目が気になってしまいがちなAuraです。今ここでは何を気にしているのかと言いますと、自分が「詩が好きだ」という話を人にはしづらいということです。趣味で「読書(小説・ラノベなど)が好きだ」という人はあまた見かけますけれども、そこでもし「詩が好きだ」と話したら、「え…?なんかガチじゃん」と言われるような予感がしてならないのです 笑


詩と言うと、どこか近寄りがたいように感じることが多いのでしょう。しかし、他の本と同じように気軽に触れてみてもいいものだと僕は思っています。
僕とて詩人に詳しいわけでも、毎日のように読むというわけでも、そして読んで何かしらの「高尚な思索」をしているわけでもありません。時々図書館にふらっと行っては読んでいたという程度の、いわゆるライト勢に過ぎません 笑

 

 

『萩原朔太郎詩集』を選んだきっかけ

ただ、手近なところに詩集のひとつでもあればとこの頃思うようになり、買ったのが『萩原朔太郎詩集』です。

朔太郎をはじめに選んだのは、昔『こころ』という詩を読んで以来記憶に残っていたからです。

 

こころ

 

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

(後略)

 

おそらく彼の詩の中で最も有名と言ってよいでしょう。読んだことのある方もおられると思います。また、ジブリ映画『ゲド戦記』における『テルーの唄』の歌詞は、この詩を下敷きにしていると(パ〇リとも…)言われています。

 

さて、これから記しますのは、半分ほど読んで気に入ったものの個人的なメモであり、ライトな感想です。詩の背景にある作者の生涯などは、今回は取り扱いません…。

特に詩では作品にどこまで作者の姿を見出すか、という少々難しい問題がありますけれども、まず作品から入っていこうと思います。

 


萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)
(Amazonへのリンクです)

結構イケメンですね、朔太郎 笑

 

『夜汽車』

夜汽車

 

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅人のねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるきにすのにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さへ
夜汽車にてあれたる舌には佗しき
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科は過ぎずや
空気枕の口金をゆるめて
そっと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。

 
(※原文では、にすに傍点が打ってありますが、ブログでは表記できないので代わりに太字としました。)


汽車の中での様子を描いた詩。夜明けが近づき、かすかに光る山の稜線をみづがね=水銀にたとえています。車窓を隔てた向こうの、もの静かな情景を想像できます。同じ静けさでも、夜とは違い朝のそれは一瞬で過ぎてしまいます。稜線が光っているのもわずかな時の間…。


そのかすかでもまばゆい光で目を覚ましたのでしょう、視線を車内へと動かせば、乗客の多くは眠ったまま。静かなはずの車内で五感が際立ってとらえるのは、電灯のちらつく音と、ニスの匂いと、タバコの煙。こうしたものを感じ取る時、外の景色と比べると車内はどこか雑然としています。「電燈のためいき」という表現が個人的にグッときました。
目的地まではまだ遠く、同じく起き出した女と身を寄せ合い再び外へと目をやれば、そこにはオダマキの花。きっと朝陽をうけて一層白く見えていることでしょう。

 

僕は新幹線ではなく在来線でゆっくり行く旅が好きで、(朝とは少し違いますが)夕方の車内はこの詩の現代版とも言える様子となります。それを思い出して、たまには車ではなく電車で旅行に出かけてみようかなぁ、という気持ちになりました。

 

 

『桜』

 

桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも桜の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。

 

咲きわたる桜を見て、人は何を感ずるでしょうか。今でも花見で宴を開き、楽しげに盛り上がっている場面を目にします。桜のもとに集まりその綺麗さに心うたれる人々。自分もそんなふうに、と思っても決して心が満たされることはありません。散りゆく桜を見て感傷を抱いてしまうのです。人とは違うのだという孤独の涙が、花びらとともに落ちていきます。今自分が見つめているのは、悲しいもののはずではないのに…。

 

桜というのは古来、美しさと散る儚さの両方が取りあげられています。とはいえ、悲しい面ばかりを見出す感傷的な人はきっと少数派なんだろうな…と思っています。そういう人にとっては、この桜の詩は胸に迫るものがあるでしょう。朔太郎の感性がよく表れています。

この前僕は夕暮れ時に桜を見にいったんですが、まさにセンチメンタルのダブルパンチに遭ってしまい、それはもうすさまじく気分がうちしおれました 笑

 

 

『月光と海月』

月光と海月

 

月光の中を泳ぎいで
むらがるくらげを捉へんとす
手はからだをはなれてのびゆき
しきりに遠きにさしのべらる
もぐさにまつはり
月光の水にひたりて
わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか
つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに
たましひは凍えんとし
ふかみにしづみ
溺るるごとくなりて祈りあぐ。

 

かしこにここにむらがり
さ青にふるへつつ
くらげは月光の中を泳ぎ出づ。

 
とても幻想的な詩です。月光に照らされた水面はさぞ美しいことでしょう。くらげをとらえようと手を遠くまで伸ばすも、つかまえられることはなく…。海を漂い濡れた体は、さながらガラスのように月光を映し出しますが、やがて溺れるように、冷たく暗い深みへと沈んでいってしまいます。対象的に、くらげは周りや頭上でたゆたっているのです。

 

遠くまで離れていき手の届かなくなったくらげは、自分が望んでも叶わない・得られないものを象徴しているのかなと個人的には感じられました。そも、くらげというのはつかみどころのない存在ですから、その願望もはじめから成し得ない幻なのでしょうか。凍えた魂のまま沈んで行く姿は、先の『桜』とはまた異なる孤独を描き出しているように思います。

 

 

 

第一回はこの三つで終わりとしますが、今後続きを書く予定…?です。詩の感想を書くのが予想していたよりも難しかったので、この記事では魅力は伝わりにくいかもしれません。うまく言葉にまとめられない感覚があります。

 

詩集の中の朔太郎の言葉、

『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい?』といふ問に対しては何人もたやすくその心理を説明することは出来ない。

にはすごく同意したくなりました。


みなさんも何か詩に触れてみることを僕としてはすすめたいのですが、今回記事にした萩原朔太郎は、正直なところ万人受けしにくいかもしれませんね…笑
次は現代の詩人・谷川俊太郎の詩集を買ってみようと思います。